今年は私にとって忘れられない年になった。
3月に息子を連れ去られ、離れて暮らす様になりもうすぐ9ヶ月が経つ。
息子にある日突然会えなくなり、何度死を考えたか・・
地獄の日々だった。
その地獄の日々の中、前から癌で闘病中だった父の様態が悪化
何度も夜中危篤になり、とうとう今年6月に他界した。
あの当時は息子を失い鬱に近い状態だった為、夜中何度も病院に行き
父を交代で看病しながら、寝不足で仕事に行くの繰り返しだった日々は
私の人生の中で1番きつく、辛い日々だった。
そんな状態なので、父の葬儀の時は母と弟にかなり頼ってしまった。
もちろん、その最中も離婚調停だの、婚姻費用調停だの調停は
ボロボロになりながらこなしていた。
そんなきつい状態でも、相手の主張している婚姻費用の支払いと額を
認め息子に約半年ぶりに会えてからは少し落ち着いてきた。
9月には浅草で行われた、子どもに会えない親のウォーキングフェスにも参加した。
司法や弁護士に理不尽に子どもと引き裂かれた親達のデモだった。
11月には、単独親権違憲訴訟、国賠原告の主催、当事者BBQに参加して
当事者仲間も増えた。
そして12月、婚姻費用を払っていくのに住んでいた3LDKからの引越しを決断した。
息子と暮らしていた、その家でまた一緒に風呂に入り、一緒に寝て、一緒に食事をする
それが夢でがんばってきたが、色々な事情が重なり引越しを決断する事となった。
息子がいなくなり、ボロボロになった思い出の家だけど最後位笑って過ごしたいと思い
当事者に声をかけ、我が家で忘年会を開いた。

参加者は東京・神奈川・埼玉・静岡から11人が参加してくれた。
そして引越し当日、息子と過ごした家とのお別れ。
朝、母から電話があり、父の兄が昨日亡くなったとの連絡だった。
引越し業者が来るのは午後からだった為、とりあえず叔父の家に線香をあげに行った。
急いで自宅に戻り最終的な梱包、なんとか業者がくるまでに終わらせた。
全ての家具がなくなり無機質な部屋を見ていると心が壊れそうになった。
それはあの連れ去り当日、何にも知らずその日も早く仕事を終わらし息子と風呂に入るのを
楽しみに帰宅し玄関を開けた次の瞬間に見た家具や荷物がなくなった暗く無機質な空間
そのものだった。




新居に荷物を運びこむと、また気分が落ちた。
息子との接点がまた1つ消えた事によるものだった。
気づかないうちに涙も出ていた。
新しい家に落ち着かなかったのか、その日はあまり眠れなかった。
そして次の日の深夜にまた母からの電話
もう悪い予感しかしなかった。
案の定、今度は父の妹の旦那さんが亡くなったと言う連絡だった。
自宅で少し前に息を引き取ったので、パニックになっているらしく
タクシーを呼び、向かう事になった。
その日もほとんど寝れなかった。
次の日は当事者仲間が企画した共同親権のビラ配りを渋谷までお手伝いに行ってきた。
渋谷の人並みが多い場所で声をあげて共同親権のビラを配った。
誰1人寒いとか恥ずかしいなんて言わない。
会えない子どもと会えるようになる為に必死な親達だった。
その後、東京の弁護士会館で行われる親権シンポジウムに参加した。
シンポジウム1時間前に当事者と待合せをして、弁護士会館前で横断幕を掲げた。
土曜日だった為、ほとんど通行人がいなくアピールがイマイチだったけど
周知するっていう当事者の行動が大事だよね。


シンポジウムの内容は思っていたより共同親権よりの内容だった。
幼児期は記憶の薄れるのが早い為、最低でも1週間に2回は会う事が望ましいと言う言葉に
月に1回も会えていない私にはうらやましい事だった。
その他の内容も共同親権に好意的な内容だったと思う。
たぶん日本は将来共同親権になる。
それをいかに早くするかは当事者の行動次第だと思った。
早く共同親権になってもらわないと息子にたくさん会えない。
いや、会うと言う言い方より一緒に過ごしたいの方が正解かな。
夜は出席した当事者と懇親会。
帰りはまた慣れない電車で慣れない新居に帰宅した。
もう今年も残り1週間、息子に会えなくなって9ヶ月、早いものだ。
来年は仕事を少しずつ元の量にもどし、共同親権への活動ももっとできたらいいと思う。
そして1番は、来年はもっと息子と過ごす時間が多くなる事を願う。