こんにちは、ルシアンですぶーぶープピッ

久しぶりにちょっと厚めの本です。


ルシアンの社会問題を考えるブログ
言語が違えば、世界も違って見えるわけ
ガイ ドイッチャー (著), 椋田 直子 (翻訳)
インターシフト (2012/11/20)


タイトルから、欧米人とアジア人の思考の違いなどが言語からわかるのかと思って読み進めましたが、結論は逆でしたショック!




言語の違いは多くみられるので、それが知覚や思考の違いから生じたものなのではないかと予想したが、実験と考察の結果、言語が大きく違うからといってみている景色や思考に違いはほとんど見当たらないことがわかりました。




古く紀元前8世紀の詩人、ホメロスは、海を「青」とはいわず、「葡萄酒色」といったし、色名については聖書や他の古代文書にも「黒」「白」「赤」のほかには「暗い」「明るい」などしか表記がありませんでした。

このことから、言語界では一時、古代の人類の目は色弱だったのではないかと騒然となります。

しかし現代においても同様の色の表現をする言語の話し手を先住民や未開人に見つけ、テストをしたところ、青も緑も茶色も桃色も、私たちと同等に見えていることがわかります。

また未開人の言語はカタコトで単純であるという予想も、まったく外れており、どんな言語も複雑さは変わらず、複雑な哲学思想なども言い表せない言語はないことがわかりました。





えっ、、そうなの。。

タイトルと違うんじゃあ??




ただ、言語によっては、使うときにある情報を認識することを話し手に強いるため、話し手はほかの言語を話す話し手より、その情報について意識していなければならない、という特徴があります。

その例が3つだけ紹介されており、今のところこの3つだけが「世界が違って見える」例のようです。




1その例のひとつとして、オーストラリアの先住民の言葉であるグーグ・イミディル語は、位置を表す時には必ず東西南北の方角を示さなければいけません。

彼らの言葉には、左、右、そっち、下などという表現はなく、すぐそこを指すときでさえ「おまえの足の北に蟻がいる」という言い方をするそうです。

そのため彼らは常に自分の位置情報をかなり精確に把握しており、影のでき方などから判断する習慣を持っているそうです。





22つ目の例は英語で船を「she女の子」といったり、船の初の航海を「処女航海女の子」というように、動物や無生物に対して男女を区別をつけることです。




33つ目の例は、アートに関する認識で、母国語で名前がついている色の方が、名前がついていない色よりも認識の速度が速かったという実験結果を挙げていました。







思ったより「違って見える」世界がささいなことで拍子抜けしました。







日本語についてほとんど触れられていなかったのが残念です。上記の3つの例で日本語を振り返ってみると、1つ目については状況に応じて「左右上下、ここ、そこ、あそこ」「東西南北」を使い分けるのでインドヨーロッパ語族の言語とあまり変わりません。

ただ日本語は位置を示すとき、距離の遠さによって三段階「ここ、そこ、あそこ」と分けますが、これは特徴的なようです。普通は二段階くらい。



2つ目についてみると、ベッドやら橋やら小鳥やらに、なんでもかんでも「he」やら「she」やらに変換するフランス語、スペイン語、イタリア語等は気持ち悪く感じます。船の「処女航海」なんて、最初に聞いたときはなんて下品な・・・と思いましたガーン

しかし彼ら的にはユーモアな会話ができてよいと感じているようです。あせる


日本語は動物や無生物を彼女やら彼とは呼びませんよね。動物がオスだったら「彼」、メスだったら「彼女」ということはありますが、あくまで擬人化というか親しみを込めていることを示す場合です。

しかし無生物に多少の男女のイメージを結び付けている(たとえば橋を「he」と言う言語の話し手は橋に対して男性的なイメージ「力強い」「大きい」などを持つ)からとって、あまりそうではない言語の人たちと思考が変わるかというと、そのほかのことに関しては影響しない、つまり思考には関係がないように思えます。




3つ目については多少興味をひかれます。色名の細かさについては日本人は定評がありますよね。

緑ひとつとっても、

若草色
草色
柳色
萌黄色
松葉色
苔色
鶯色
夏虫色

など微妙~~に違う色がたくさんあります。


今はこの色彩感覚は昔の人より鈍くなっているのでしょうが、それでもこういった微妙な色に美しさを感じ、ほかの色と違うと認識している部分はあると思います。

幼少のころからアメコミカラーのものばかりに触れていると失われていきそうですが・・・ショック!




ところで、日本語の特徴として、主語の種類が豊富で、話し手と聞き手の関係性が第三者からもわかるというものがあります。




小生
おいら


貴方
貴殿
先生


また家族間では、下の者を中心とした立場名でお互いを呼びます。たとえば両親と姉妹の4人家族だった場合、妹から見て「お父さん」なら、妻が夫を「お父さん」と呼ぶ家庭は多いですよね。

欧米なら父母でも先生でもファーストネームで呼ぶので驚きます。


これぞ筆者の言う、どんな情報を話すかを話し手に強いるという部分で、ここでは相手との関係性を意識することを強いるということになるのでしょう。


陳腐ですが、集団社会においてときに自分を抑え、和を維持しようとする村社会がつくった言語、というところなのでしょうか。


それでも「思考に影響する」ほどの違いではないように感じます。






言語界の研究は、現代のヨーロッパ人が話す言語が最も優れているとの立場から古代人の言語や未開人の言語を研究しましたが、結局言語に優劣はないことがわかった、ということなのでしょう。

私も日本語に特段の優秀さを見るのはやめたほうがいいみたいですね。。反省しょぼん