8歳の長女と、沖縄「慰霊の日」講演会へ行きました。

79年前の戦争、実際に経験した方から直接お話を聞けるのは、時間的に残りわずか。

当時9歳のお話、とっても貴重な経験でした。

空襲警報が鳴った時、どうすべきか教えられていた歌があった。

防空壕で生活をしていて、母親が食事を作りに家に戻る時、無事に帰ってくるか不安だった話。

家族で隠れていたところが見つかり捕虜になった話。

経験した本人から聞くと、想像しやすく、重みが全く違う。

 

沖縄戦というと、ひめゆり学徒隊がよく取り上げられるけど、

沖縄県内の場所によって、状況も悲惨さも全く違う。

犠牲者⚪︎万人とまとめられているけれど、

その一人一人に生き様、死に様があって、

この中には残酷すぎて語られることさえなかったストーリーもある。

 

 

以前「沖縄スパイ戦史」を観て、その闇深さに衝撃を受けた。

沖縄県北部では、機密部隊として「護郷隊」と呼ばれる10代の少年ゲリラ部隊があった。

「捨て石中の捨て石」と呼ばれ、その写真は一枚も残ってない。

1945年の日本軍マニュアル

「島の戦いとは、住民をいかに利用するかにかかってる。

喜んで軍のために労働させ、住民同士を監視させ、食糧の供出をさせ、最後は武器を持って戦わせる。」とあり、「スパイは処刑せよ」とも書かれている。

 

沖縄の言葉を話すとスパイ扱いされ、

日本軍に壕を追い出され行き場を失った住民がいる。

 

日本軍は、沖縄地上戦前、陸軍中野学校から沖縄へ42名、住民のふりをしたスパイを派遣。

地上戦に備え、地元民衆を活用するために、民衆の動向を常に監視して、

少年兵だけではなく、住民を作戦に利用し、邪魔にならないよう「始末のつく」状態にしていた。

要するに日本軍は地元住民が敵に寝返らないように、住民に住民の思想傾向を監視させ、スパイリストを作成し、敵性因子がいれば処刑するシステムを作っていた。

 

軍隊が自国民を殺し、住民が住民を死に追いやる、住民を作戦に利用する、

これが沖縄戦の末路だった。

 

もし沖縄だけでなく本土決戦に進んでいたら、全く同じことが行われていた。

 

有事の時、国民を保護するために自衛隊がいるのではない。

第一に、国、あるいは自衛隊基地を守らなきゃいけない。

住民ではなく、国、権力者を守る。

 

 

 

この事実を、経験してない私たちは、これをどうにかして次世代へ伝えていかないといけない。

繰り返さないために。