もうすぐラーダクリシュナの名前で知られる、ラーダの降誕祭です。
クリシュナは宇宙に存在する全ての源。
その恋人と言われているのが、ラーダです。
クリシュナには実は沢山の奥さんがいるのですが、
ラーダはあくまで恋人です。
ではなぜ、「ラーダクリシュナ」と言われるほど、ラーダが信仰の対象になっているのでしょうか。
それは、ラーダが最もクリシュナを愛した女性だからです。
クリシュナはヴィシュヌの化身であり、
ラーダはラクシュミ(ヴィシュヌの奥さん)の化身であるとも言われています。
そのラクシュミが、化身として、
奥さんではなく、あくまで恋人ラーダの姿で降誕しているところが、
「真実の愛」を伝える物語の鍵になっているのだと思っています。
ラーダとクリシュナは、幼少時代の幼なじみ的な存在であり、
クリシュナが青年になってからは、二人は現実的に会うことはほぼなかったのです。
肉体的な接点も、結婚といった契約上の接点もない中、
ラーダのクリシュナへの愛と信仰こそが、「真実の愛」を伝えています。
見返りを求めず、一重に愛し続ける、、、、。
よく、「見返りのない愛」の例を母親の愛に例えることがありますが、
母親という責任や血縁がここには存在します。
ラーダとクリシュナの愛は、それを超越したものでしょう。
ラーダがクリシュナをどれだけ愛しているかについてラーダがクリシュナに語りました。
「私はあなたの愛の誘惑に囚われてしまっています。その気持ちはあなたには絶対理解できません。
なぜなら、あなたは誰もそのように人を愛することはないから。
あなたには、誰かに恋に落ちるような経験はないでしょう。」
クリシュナは言います。
「私が誰に恋に落ちることができるのだろうか。誰かに恋をすることはありえない。
あなた、ラーダにさえもないだろう。
ミルクに火が入って暖かくなったら、ミルクと火は区別できない、
また、波と海が区別できないように、
私とあなたも同じで区別できるものではないのです。
私たちは一つです。
私はこの世界の至高の神であり、あなたはその力の源なのです。
私が魂、あなたが肉体とも例えられます。肉体なしで魂は存在できません。
私たちもおなじ関係性なのです。
宇宙のすべてのものは、肉体と魂の繋がりなしには存在も機能することもできません。」
ラーダは言います。
「なんだか、混乱します。マヤ(幻想)の罠にはめられたような感じがします。」
クリシュナは言います。
「そうではない。宇宙を見たとき、私の概念の中では永遠の宇宙は再生と破壊を繰り返している。
その中で、私も現れたり消えたりします。全ての生き物の中に私は存在します。
私が殺す側にもなり、また殺される側にもなります。
母親にもなり子供にもなります。
聖者でもあり罪深い人間でもあります。
そして、クリシュナでありラーダでもあります。
このように私が全てであり、これ以外にいないのに、私は誰に恋するというのですか??」
ラーダは言います。
「もしあなたの言うことが本当なら、私がこんなにあなたに恋い焦がれるのはどうして??
どうして私の心はこんなに愛でしめつけられるの。あなたから離れているのが耐えられないのはどうして。
どうか忘れないでください。
私の吐息があなたの体を作っています。私の心がその足を作っています。そして、あなたのその笛が私の体です。」
クリシュナはいいます。
「もちろんわかっている。では、あなたの恋の痛みや苦しみを取る考え方をどうか理解してください。
全ては支え合っているのです、果物は花に、花は葉に、葉は枝に、枝は木に、木は種に。
同じように、私は宇宙の根本でそれを支えているのです。そして、その支えの力の源は、ラーダです。
私は常にあなたの中にいます。
あなたは私の内なる力にも関わらず、どうして、幻想に翻弄されて、私のバクト(献身者)や牛飼いの子供達に嫉妬するのだろうか。
私は全てのゴピー(牛飼いの娘)の中にあなたを見ている。
どんなカップルができたとしても、彼らがどこにいてどんな姿であったとしても、
みんな全てがラーダクリシュナなのです。
それをどうかわかって、幻想のゲームに惑わされず、私のようにただ幻想を楽しまないといけません。」
ラーダは言います。
「幻想を楽しむ?幻想は真実ではないのですか。全て嘘の世界なのですか??」
クリシュナは言います。
「嘘でも真実でも、どちらでもないのです。だから、私はゲームと呼ぶのです。」
ラーダは言います。
「あなたの幻想はそうかもしれないけど、この私の愛の気持ちは、永遠に変わらない真実でしかないのです。
この私の愛が、あなたの宇宙の源なのです。
この愛という真実を、嘘だと証明することは絶対にできません。
もし愛が嘘なら、献身も嘘になります。献身が嘘なら、バクティが嘘なら、神も真実では無くなります。」
クリシュナはこれを聞いて深くうなずき、微笑み答えました。
「君のいう通りだ、私の負けを認めよう。
神であっても、愛の前では必ず打ちのめされる。
だから、バクト(信者)たちの心には勝てない。」
ラーダは言いました。
「では、あなたは私に負債を負わなければなりませんよ。」
このようにして、クリシュナはラーダへの負債を追い、
ラーダの愛の感覚を味わうために、
クリシュナの献身者チャイタンニャマハープラブーとして、降誕されたと言われています。
このお話のように、絶対真理である神様を支えているのは、献身者の愛なのです。
献身者の愛あるところに、神様は必ず存在します。
そして、その力が強ければ強いほど、神様もそれに惹かれて降伏すると言われています。
その神様への愛の象徴、バクティの象徴が、ラーダです。
ラーダを通して、真実の愛を学ぶことができます。
見返りを求めないだけでなく、目に見えない絶対的な者への愛の形
それがラーダの愛だと言われています。
私たちは無常のものへの愛や執着により一喜一憂します。
愛の裏返しは憎しみ、
これは、対象が三次元の物質的な無常のものだからでしょう。
真実の愛はこれを超えたところに向って行きます。
バクティヨーガは、物質的な喜びや苦しみには囚われない状態を目指します。
物質世界で遭遇する困難は、神様から与えられた神様に近づくための課題だと思い、
幸福は、あくまで一時的なご褒美だと受け取り、その幸せにも執着しません。
ラーダはバクティヨーガを修練する者の、お手本です。
ラーダクリシュナ
クリシュナの前に必ず、ラーダの名前を呼びます。
ラーダがあっての、クリシュナです。
ラーダがいるところには必ずクリシュナがいます。
私たちも同じです。
神様と私たちは切り離されない関係であること。
私たちそれを思い出すことができ、魂という神様の存在を理解したならば、
あとはそれを経験するために、
バクティの心をただただ育んで行きます、、、、、、。
Hari Om Tat Sat..........