よく読むブログの石田久二さんの『宇宙となかよし』
と、
雲黒斎さんの『あの世に聞いたこの世の仕組み』
が同じことを
違う表現で書いていたので、面白いと思い、
ここに重ねて書いてみます。
石田さんは、般若心経の無色無受想行識について書かれていて、
私たちが何か認識するときのプロセスを説明されています。
「受」=刺激を受けた状態
「想」=刺激に対する即座な反応、
「行」=その反応を意識化することで、
「識」=連の刺激・反応を客観視すること
例:「人は危険である」なるビリーフを持つ人
「受」=人と会うという出来事
「想」=それに対してちょっと緊張する
「行」=その緊張から逃れたいと思う
「識」=やっぱり人は危険だよなと認識
このような「刺激・反応モデル」によって、
ビリーフが事実のように認識してしまいます。
この「刺激・反応モデル」はアンカリングとも言えます。
そして、ビリーフはアンカリングで作られたプログラムそのものです。
でも 本当はそんなのなく、そんなのは『無』であり、
この世には一定の形などなくすべてが移ろい行くもので(諸行無常)、
自分が何かに接してそこで得た感覚や気持ちなども、
本当は単なる思い込みであって、最初からないんだよと言われています。
そもそも受・想・行・識もないし、
その受・想・行・識の「刺激・反応モデル」で認識した事実(ビリーフ)もない。
あるのは『空』だけと言われています。
雲黒斎さんは、現実とは「私」という主体が事実と認識したもののことであり、
「現実」の意味や価値を作り出しているのは、
「私」であると言われています。
ということは、「これはこういうモノである・こういう意味である・
こういう価値である」という定義付けが行われている時点で、
「その人の(もしくは第三者の)観念」(解釈の制限)が
通されるので、全ての人に共通の事実・現実はない
ということを言われています。
ここで、さっきの「受・想・行・識」の話を重ねてみます。
『現実とは「私」という主体が事実と認識したもの』という
この認識のプロセスが、
受・想・行・識の「刺激・反応モデル」の作用そのものと言えます。
そして、現実とは、ビリーフそのものです。
そして 雲黒斎さんは次の『プレーヤーを捜せ!』という記事
で、
本当は、ゲームのキャラクターである『私』(自我)は、
ゲームのプレイヤーである『私』(真我)と同じであり、
すべてはプレイヤーである『私』(真我)しかいないと言われています。
このプレイヤーである『私』とは、『空』そのものです。
ここからは、私の解釈ですが、
ゲームのキャラクターである『私』とは、
『空』=『意識の土台・意識そのもの』に現れた
受・想・行・識の「刺激・反応モデル」の反応そのもののことであり、
存在しない幻と言えると思います。
だから、幻である『キャラクターの私』には、その私自身を、
思い通りにコントロールできないと言えます。
それではありがとうございました。
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