汚れちまった悲しみに 雨の中を田中はただ歩く | Virging Class Hero

汚れちまった悲しみに 雨の中を田中はただ歩く

僕は降りしきる雨の中をただ歩いていた。
夏の夜の雨。
堪えきれなくなって溜まっていた涙が一気に溢れ出したような雨。
先程までの不快な湿度とともに僕のヨゴれも洗い流してくれる。
雨はすべてのヨゴれを流してくれる。
いや、それは、まやかし。
そこにあるのは ただ 現実。
否定しえない 超然とした 圧倒的な 現実。

「汚れちまった悲しみは なにのぞむなくねがふなく
 汚れちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む」

不意に口をついて出る中原中也の詩。
僕は僕の決して洗い流せないヨゴれを抱えて、
暗闇の、夏の、雨の中、ただただ 歩く。


PM 22:15 ぼんやり部屋で

わずかな窓の隙間から唸るように染み入ってくる湿度。
真っ暗な空は重く垂れてていて今にも雨が降ってきそうだ。
何の変哲も無い一日。仕事に行って帰ってきただけの一日。
ただ漫然とTVに映し出されている映像を眺めている。
ふと時計に目をやったらもう10時を過ぎていることを知り
そこでやっと自分が空腹であることに気付いた。
僕はすぐ近くのコンビニに夜食を買いに行くことにした。
つっかけを履き玄関の外に出た瞬間、僅かながら便意に
襲われたのだが、歩いて5分もしない場所にあることだし、
僕は気に留めることも無く家を出た。
外に出た途端に肌にまとわりつく様な湿気に襲われる。
重層的な雲に覆われ月明かりも何もなく真っ暗な夜道。
いつもより少しだけ急ぎ足で通い慣れた道を向かった。


PM 22:40 コンビニで立ち読み

店の前の道を走る車のタイヤの摩擦音に湿り気が帯びている。
どうやら雨が降り出したようだ。
立ち読みをしていた僕は雑誌から目を離して店の前の道を見た。
アスファルトが濡れている。車のライトに照らされ浮かび上がる
雨粒は細かくまだ雨脚は弱い。僕は再び雑誌を読み始めた。

…なぜ僕はあの時、普段決して読まない「日経エンターテイメント」を
 読んでいたのか分からない。もしも違う雑誌を読んでいたのなら…

 
PM 22:50 それは不意に

僕は何の気無しに「日経エンターテイメント」を読み続けていた。
さして興味も無い歌姫浜崎あゆみの素顔を20秒後には忘れる勢いで
読み流していく。就寝までの少しだけ持て余した時間をただ塗りつぶす
ためだけに。

その時は不意に訪れた。
それはページをめくろうとした瞬間だった。
何の前触れも無く肛門周辺に衝撃が走り激しい痙攣と悪寒が僕を襲った。
落雷現場に近いと雷光より先に雷鳴が轟く。
それに近い現象だった。
あまりにも急激な便意のため下腹部全体を襲う鈍痛よりも先に
衝撃が肛門を襲ったのだ。
僕はページをめくる手先はそのままに腰を後方に「くの字」の姿勢のまま
下半身を小刻みに痙攣させながら固まっていた。
店内はクーラーが効いていて寒いくらいなのだが
僕の額は脂汗に覆われている。
今や肛門は僕の身体から、そして僕の意思から完全に独立して別の生き物
と化していた。そしてかつての主人に牙を剥き今にもトドメを刺さんとする
勢いである。飼い犬に腕を噛まれるとはこのことだ。
どれだけ…一体、どれだけお前を今まで大事に扱ってきてやったと
思ってるんだ…。傷つかないようそれこそ赤子をあやすが如く撫でるように
拭いてやり、時には文明の力、ウォシュレットを使って優しく洗い流して
やってきたというのに…。
僕の思考は完全に停止し恐慌状態に陥っていた。
自分が取るべき道、ゴールを定め(この場合、ゴールはトイレで排便)
そこに至るまでの最短ルートを導き出すという合理的判断を出来ないでいた。
そう、僕はあの時、手にしている本を戻しレジに行きトイレを貸してください
と店員にただ一言言えばよかったのだ。
僕は真逆の行動を取った。 
全く買うつもりもなかった「日経エンターテイメント」を手に持ちレジに
向かったのだ。
…僕は今でも何故この時この行為に至ったかを説明できない。
気付いたら僕はレジで店員に「日経エンターテイメント」を差し出していた。
脂汗にまみれ小刻みに震えながら…


PM 23:05 レジにて…果つる…

まるで溺れるが如く…水面に浮かび上がろうと必死にもがく。
寄せては返すあの底無しに意地の悪いBENI-便意-
絶え間ない緊張の狭間に訪れる小悪魔の微笑が如き束の間の弛緩が
更に脅威を増した次の緊張を呼び込む。
全てはスローモーションだった。
BENI-便意-は時に時空すら歪ます。
まるで、僕の心内を見透かしているかのように、
まるで、僕を弄ぶかのように、
五十を幾ばくか越し、頭髪の秩序を完全に失った男性店員の
の一挙手一投足が緩慢に、そして、このレジでの二人で対峙する時間
が永遠に続くかのように感じさせる。
今や世界には、この2人の男しか存在していない。
海の底に深く沈んでしまったよう。
深く、深く…沈んでいく…歪んだ、緩慢で重たい時間に纏われながら…
現実感が薄らいでいくなか、朧げになる意識の向こうから声が聞こえた。
「…円になります。」
僕は我に帰った。時間が唐突に動き始めた。
…僕はまだやれる!
僕は僕の時間と、意思を取り戻した。
これを、これさえ払えば解放される!
僕は震える手を必死に抑えながら財布から千円札を取り出した。
もう片方の手で、処女が恥ずかしげにその初々しい胸を隠すが如く肛門を覆いながら。

「あ、お客様すいません、」
「…え…?…」
「今月号には特別に付録がついてまして」
「…え?…あ…いや…げ、限界…」
「少々お待ちくださいね、只今取ってまいりますので」
そう言うやいなや店員はカウンターを抜け出し本コーナーに向かっていった。
僕を顧みることなく…。

… そして僕は果てた …

その言葉は僕に大人であることを諦めさせるに充分な一言だった。
肛門に一陣の風が吹いた。
僕は遠ざかる初老の店員の蛍光灯に鈍く照らされる後頭部を見送っていた。
臀部一体を包み込む、どこかノスタルジックなあの熱気と臭気を感じながら…


いつしか雨は激しくなっていた…


僕は降りしきる雨の中をただ歩いていた。
夏の夜の雨。
堪えきれなくなって溜まっていた涙が一気に溢れ出したような雨。
先程までの不快な湿度とともに僕のヨゴれも洗い流してくれる。
雨はすべてのヨゴれを流してくれる。
いや、それは、まやかし。
そこにあるのは ただ 現実。
否定しえない 超然とした 圧倒的な 現実。

「汚れちまった悲しみは なにのぞむなくねがふなく
 汚れちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む」


布を切り裂くような音をたてながら雨水を撒き散らして
車が僕の脇を通り過ぎて行った。