小田島先生の日経新聞:私の履歴書の連載が始まった。
大学の教養学部の英語の授業で幸運にも小田島先生のクラスになり、直に教えを受けた。
受験英語と、演劇の英語というか、プロの英語の違いを知って驚愕を受けたのを覚えている。
例えば、
This is a PEN.
は、「これは”ペン”です。」と訳すのが受験英語だが、
「ペン!」にもなれば、
「ペン!これが!」
にもなるように。
他にも教養のクラスでも文化人類学とか法哲学入門とかは、面白いというか、田舎から出てきて受験しか知らなかったノンボリに強烈な刺激を与えた。
一方で、教養とは言え、難しすぎるものも多くてついて行けなかった。
数学や図学などはその一つで、数学は受験数学では優秀な部類だったし、図学は将来設計を志していたので好きな分野だったが、難解すぎた。
今でも覚えているが、図学は夏休みの課題が、金閣寺の三面図から斜め上から見たパースを描くと言うものだった。屋根の反りとか複雑な欄干とかあって、そのまま模写するだけでも難しいのに。。。
あと、覚えているのが、ドイツ語だ。初めて4月にアーベーツエーを学んで、9月の一学期のテストでは普通の文学書の和訳だった。その頃は記憶力が良かったので何とか丸暗記でクリアできたが。
しかし、クラスには大秀才がいて、難解な数学演習の問題も簡単に解いてしまう人や、1年の秋にはドイツ語で文章を書いていたりする人がいた。
すごいなあ~というか、かなわないなあ~と絶望的になって、軽く諦めてしまったが。
今思えば、キャッチアップすべく頑張れば良かったと後悔しきりだ。
まあ、それはそれとして。。。
小田島先生のテキストは、『欲望というなの電車』だったと思う。
男と女のドロドロした情欲の世界など男子校の高校ではとても教材にはなりえないものだったし。
その影響でしばらく演劇に凝ることになる。
当時は劇団四季は高かったが、今のようなロングランでなく単発で新機軸のものの講演していたし、野田英樹の夢の遊民社が下北でやっていたりした。駒場小劇場でも結構名のある劇団がやっていた。
そんな新しい世界のドアをあける=工学まっしぐらの道からドロップアウトする方向への契機の一つにもなったのが、小田島先生の講義だったかも知れない。
大学の教養学部の英語の授業で幸運にも小田島先生のクラスになり、直に教えを受けた。
受験英語と、演劇の英語というか、プロの英語の違いを知って驚愕を受けたのを覚えている。
例えば、
This is a PEN.
は、「これは”ペン”です。」と訳すのが受験英語だが、
「ペン!」にもなれば、
「ペン!これが!」
にもなるように。
他にも教養のクラスでも文化人類学とか法哲学入門とかは、面白いというか、田舎から出てきて受験しか知らなかったノンボリに強烈な刺激を与えた。
一方で、教養とは言え、難しすぎるものも多くてついて行けなかった。
数学や図学などはその一つで、数学は受験数学では優秀な部類だったし、図学は将来設計を志していたので好きな分野だったが、難解すぎた。
今でも覚えているが、図学は夏休みの課題が、金閣寺の三面図から斜め上から見たパースを描くと言うものだった。屋根の反りとか複雑な欄干とかあって、そのまま模写するだけでも難しいのに。。。
あと、覚えているのが、ドイツ語だ。初めて4月にアーベーツエーを学んで、9月の一学期のテストでは普通の文学書の和訳だった。その頃は記憶力が良かったので何とか丸暗記でクリアできたが。
しかし、クラスには大秀才がいて、難解な数学演習の問題も簡単に解いてしまう人や、1年の秋にはドイツ語で文章を書いていたりする人がいた。
すごいなあ~というか、かなわないなあ~と絶望的になって、軽く諦めてしまったが。
今思えば、キャッチアップすべく頑張れば良かったと後悔しきりだ。
まあ、それはそれとして。。。
小田島先生のテキストは、『欲望というなの電車』だったと思う。
男と女のドロドロした情欲の世界など男子校の高校ではとても教材にはなりえないものだったし。
その影響でしばらく演劇に凝ることになる。
当時は劇団四季は高かったが、今のようなロングランでなく単発で新機軸のものの講演していたし、野田英樹の夢の遊民社が下北でやっていたりした。駒場小劇場でも結構名のある劇団がやっていた。
そんな新しい世界のドアをあける=工学まっしぐらの道からドロップアウトする方向への契機の一つにもなったのが、小田島先生の講義だったかも知れない。