肌寒い朝だった。娘をベッドに見に行くと呼吸が浅く、明らかに体調が悪そうだった。痙攣のような動きもあり、部屋が薄暗くてはっきりしなかったが鼻の付け根に薄っすらチアノーゼが出ている気がした。慌てて今に運び、おむつ替えついでにダイアップを投薬した。熱を計ったが、微熱というほどの熱でもなかったが身体は明らかに熱かった。何かおかしい。午前中は出社を諦め、妻を伴って掛かりつけの大学病院に診察してもらいに出掛けた。細かい雨が車窓を濡らしていた。

待合は混んでいた。医師が言うには、インフルエンザもRSウイルスも胃腸炎も流行っていて、今はなぜかめちゃくちゃだと言っていた。娘は表情なく辛さに耐えているようだった。喋れない事、言葉の理解が出来ない事の何が困るかって、痛む箇所や何が辛いのかがわからないから、検査の選択肢が多くて治療までに時間がかかってしまうことだ。娘の同級生が何人か亡くなっていたが、あの子たちも自分の痛みや辛さを語る事が出来ていたら、今でも生きられていたかもしれない。血液検査とレントゲンを撮って、レントゲン写真の結果を待たずに血液検査結果だけを診た時点で医師に入院を勧められた。後でレントゲンを確認してもらったが肺に白い靄があって、肺炎気味のようだった。3月にも肺炎気味で入院したが、完治せずに今日に至ったような感じで、胸がいつもぜろぜろしていた。大事に至る前に入院出来た事は良かった。良かったとしよう。
会社には全休への変更の連絡をした。入院だ診察だ、しょっちゅう連絡をするものだから、上司や同僚はどの程度信じているのかわからない。またか、ってら思っているだろうが、そう言うわけにもいかないのだろうから、なんとも言えない気持ちになる。

入院の準備は時間がかかるので、早めに帰宅する予定の長男の昼飯の用意と、入院中の着替えやおむつ、ぬいぐるみなど、娘のための荷物を取りに行くために、一人で一時帰宅した。二男はまだ帰ってきていない。犬がぬか喜びして騒いだ。やる事を済ませてすぐに病院へと踵を返した。病院の駐車場に入る手前の道路に2羽の鳩が降り立った。鳩が道を塞いで進めない。なんなんだ。クラクションを鳴らしてもかなり近くに寄っても退いてくれない。運転席からは姿が見えない。少しバックして姿を確認し、対向車線にはみ出して鳩を追い越した。なんなんだ。
病棟のベッドの手配がまだ済んでいなかった。着いて間も無くして済み、看護師に導かれて小児病棟へ向かった。いつも入院する時よりは娘の意識がはっきりしていて、移動している最中、無表情ながらも不満そうに口をすぼめて舌を出してた。一通りの手続きを終え、妻を病室に残して帰宅した。もう会社に行く必要は無かったが、仕事に行く振りをして家を出た。15時半を回っていた。

昨日会った学生時代の友人Sと、同級生Aの話で盛り上がった。なんというか、彼は怪物だった。良い意味は何一つ無く、怪物。何が原因かは一概には言えないが、恐らく同級生Aは成人前に逆境に身を置いた事が無かったのが、彼の人生を大きく狂わせたのではないかと思った。Aとは関わりたくない反面、どうなっているのかを知りたいという好奇心もあり、Sに提案された事もあってAが学生時代に住んでいたアパートを訪ねることにした。Aを知る方法がそれしかなかった。しかしどう考えても、20年近く前のアパートにいまだに住んでいる可能性はかなり低い。一度はSの提案を断ったが、ストリートビューでAが住んでいたアパートの画像を見たSは、干されている洗濯物を見て「こんなに雑な干し方をするのはAだ」と譲らないので、どちらかと言うとそのアパートに近い所に住んでいる俺が行く事になった。いつ行っても良かったが、娘の入院で何かの糸が切れた俺は、行くなら今だと決意した。Aが住んでいたのは大学の最寄駅から10分のところにある。当時と今とでは駅前の様相が全く変わっていた。Aのアパートに行くまでに、学生時代に何度か寝た女の子のアパートの前を通った。ろくでもない別れ方をしたのでその子にはもう会えない。ダイビング用のオレンジ色のドライスーツが部屋の壁に吊るされていた事を覚えている。しばらく歩くと細い川に出た。

この川沿いにAのアパートがある。橋を渡ってすぐなのだ。そう思うと、やや緊張した。俺は1人でAに会いたいわけではない。怪物Aと話す事などない。存在を確認したいだけだ。アパートの川に面した側にはバルコニーがある。幸いにも道から洗濯物が目視できる。良い趣味ではないが、Aの住んでいた部屋の外に干してある洗濯物の種類を判別した。Sが言うには、10年ほど前に一度だけ連絡した際(その時点では学生時代と同じアパートに住んでいた事は確実だったらしい)に、Aは自分で100キロを越す巨漢になったと話したらしいが、明らかに小柄な人の着るサイズの服が干してある。学生時代は恐らく50キロ台だっただろうAだが、きっと貧困の中で太った。俺も同じだからわかる。日本での貧困は人を痩せさせるか、太らせる。理想や意思を持たないタイプの貧困は太るのだ。アパートの周囲を歩いているとちょうど2階に住んでる学生が帰ってきた。住人について聞いてみると、全8戸あるうち人が住んでいるのは3戸で、自分以外は女性だと答えた。怪物Aが住んでいた部屋には女性が住んでいるらしい。洗濯物がユニセックスなものしか無かったのでわからなかったが、確かにサイズ感は女性のものであった。Sにその旨を伝えると申し訳なさそうに無駄足を労ってくれた。自尊心と根拠の無い自信でパンパンに膨れ上がった怪物の足跡が途絶えた。実家に素直に帰るタイプでは無いし、人の下で大人しく働ける社会性を持たない怪物Aはどこに行ったのか。世の中への憎悪を溜め込んでいたであろうAは今何をしているのだろうか。溢れ出す憎悪に飲み込まれて罪を犯していなければ良いのだが。幸福に生きていることを想像するのは難かった。

用が済んだのでそそくさと京王線に乗って新宿へ向かった。池袋でやっているアンジュルムのリリースイベントに行こうと思っていたが、開始時間を勘違いしていたため間に合わない。新宿で乗り換えついでに早めの夕食を食べた。吉野家で特盛と豚汁。食べ過ぎてしまった。
ゆっくり牛丼を食べると、20時に飯田橋のスターバックスで会う約束をしていたチェコ人女性との英会話レッスンに余裕のある、ちょうど良い時間だった。店内に入り窓際の席を確保すると彼女からメールが入った。少し遅れるとのこと。ほうじ茶ラテを飲みながら英語の教則本を開いていると間も無くして彼女は来た。娘についての話をしたが、英語で伝えるのはちょっと難儀だった。彼女からはチェコのカツレツの作り方を学んだ。週末家族に作り、その画像をメールで送る約束をした。レッスンを1時間で終え、彼女と有楽町線に乗り永田町で別れた。家の最寄駅に着き、タリーズコーヒーにて閉店時間まで過ごした。娘の事や怪物Aの事を考えていた。何にも辿り着かない。
帰宅したが娘の夜中の注入作業が無いので気が抜けていたのか、早々に床で眠りの穴に落ち、4時まで眠ってしまった。目が覚めた時、今日は金曜だが年末だから会社は休みだと錯乱した。錯乱からちゃんと覚醒する前にベッドに移動した。Aの事はもうしばらく思い出さないだろう。