動画はフレデリック・ショパンが1841年に作曲。ポロネーズ第5番(ポロネーズだいごばん)嬰ヘ短調 作品44です。同年出版された。次作の『英雄ポロネーズ』と同様に雄渾な曲想と、中間部にマズルカを取り入れた新しい形になっている。『英雄ポロネーズ』とは対照的な悲劇的な作品で、演奏時間も10分以上を要する大作。中間部にマズルカをはさむことにより、ショパンはポロネーズとマズルカというポーランドの伝統的なリズムを一つの曲で表現することに成功した。日本以外では"Tragic(悲劇的)"というタイトルで呼ばれることがある。『英雄ポロネーズ』に隠れてしまい、演奏会で取り上げられる機会は少ないが、その分演奏者の力量が光る逸作でもある。wiki参照

彦根城登頂後のブログを執筆しようと思ったのだが、二週間近くも放置してしまいました。すでに忘れかけているが、覚えている範囲で執筆します。

彦根城博物館は五百円でした。十月に七百円の値上げです。看板に江戸時代の能舞台とあった。この前に能のdvd上映があったのだが、今80歳のオバアが10分程度で寝息を立ててしまって困りました。確かに能は眠たくなります。かつて学生時代に、金持ちのボンが、京都御苑西の能舞台で下手くそな能を舞っていた。これって踊るには前売り券の自爆買いがあったようでして、タダで券を貰ったが、知り合いの演目が終わればそそくさ帰宅した記憶がある。最後にプロの能楽師の演目があったようだが、それまで赤の他人の能を見るのが苦痛だった記憶がありますな!

展示物の撮影はフラッシュを焚かないとあったが、ここでは撮影するようなものはほとんどなかった。唯一、西王母の肖像画があった。桃の花に座っている女性が西王母である。「西王母はかつての「人頭獣身の女神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃(蟠桃)を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。王母へ生贄を運ぶ役目だった青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。中国民間では旧暦三月三日の「桃の節句」が西王母の誕辰で、この日には神々が彼女の瑶池に集まって蟠桃会を行なうと伝えている。」wikiではこうである。自身が信じるには、崑崙の女仙の統括者でして、年齢は30歳くらいの絶世の美女、髪を優雅な大髷(おおまげ)に結い、華勝(かしょう)と言う極上の冠に黄金色の衣をまとい、万能のお札をもっている。令和の今では、コロナウイルスが流行したようだが、どうも、根源神が西王母に命じて、ペスト(黒死病)、コレラ、エイズ、エボラウイルス等を用いて、天の意にそぐわない人間の間引きを行っていると言った内容を霊能者から聞いたことがある。別名、九霊太妙亀山金母(きゅうれいたいみょうきさんきんぼ)とも言われる。かつては前漢の武帝が西王母と会ったそうでして、三千年に一度実がなる桃を七個持っていて、その内、四個を西王母が食べた。残りを武帝が食べた。桃の種子を持ち帰ろうとしたが、人間界に植えても生えないと聞かされた。地仙になれる口伝書と護符を授けられたが、淫事(いんじ)飲酒にふけり、戦争に明け暮れていたので、70歳余りで武帝は死去した。

初代井伊家直政の甲冑である。「井伊の赤備え」である。彦根城なので井伊直政について執筆したいが、ほとんど資料を揃えられなかった。代わりだが、近くに佐和山城跡があるので、やはり石田三成になってしまう。関ケ原の戦いの勝敗のカギを握るのは、小早川秀秋である。何故、徳川家康に味方したかについてだが、どうも秀吉の正妻ねね、後の北政所(きたのまんどころ)が鍵を握っているようである。文献は忘れた。家康は下野(しもつけ)小山陣中で三成の挙兵を知った。有名な小山評定であるが、家康は、三成か自分(家康)、どちらにつくかは各自の自由と言った。と言うのは会津征伐は秀頼の名代の名目があったからである。そこで最初に味方したのが福島正則である。次に池田輝政、浅野幸長、黒田長政になる。当然迷うものも居る。その時に、北政所に意見を伺いに行く武将も居る。その時に、「石田三成はカミソリである。鋭くてよく切れる。一方、徳川家康はナタ、(※斧の説もある)である。よって太い木はカミソリで切れないが、ナタでは切れる。よって徳川家康の方が優位。」と言ったような内容の話しを聞いた。それを黒田長政・浅野幸長が聞いたのか、北政所を裏切るでないと言った内容を小早川秀秋に言ったとされる。小早川秀秋は、天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として近江国長浜に生まれる。母は杉原家次の娘。幼名は辰之助といった。天正12年(1584年)、叔父である羽柴秀吉の猶子となる。同13年(1585年)、秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。そういう訳で、育ての親には逆らえなかったと思われる。

大谷吉継も石田三成は家康に勝てないと予想していた。石田三成は19万石の小大名、家康は256万石の大大名である。力の差は歴然としている上に、石田三成は令和で言う官房長官としてなら優秀だが、総理大臣になれないのを大谷吉継ですら見抜いている。しかも次の天下は家康と見込んで上杉景勝への会津討伐に参加している。そこで石田三成に家康への挙兵を打ち明けられる。大谷吉継は大反対する。その三成を見捨てなかったのはある訳がある。大谷吉継は、重度の皮膚病を患っていた。らい病とも言われる。よって、顔が醜いので、いつも頭巾を着用して、他人から顔を隠していた。ある時、茶会があった。一つの茶碗に大勢の武将が回し飲みをする。大谷吉継が茶を飲むと、顔の膿が数滴、茶碗に入った。当然、次に誰が飲むかで揉める。それを石田三成が代表して、膿の入った茶を全部飲んだそうである。この行為で大谷吉継と石田三成は親友となったそうである。秀吉は大谷吉継の器量を早くも見抜いていて、「百万の兵隊を与えて、縦横に指揮をとらせてみたい。」と言ったそうでして、越前敦賀に5万7千石を与えられている。

やはり筆頭家老に島の左近が挙げられる。三成(治部少※じぶしょう)にすぎたるものが二つある。島の左近(勝猛※かつたけ)に佐和山の城と言われている。かんこおどりの歌の中に、佐和山見物として、おれは都の者なれど、近江佐和山見物しよ、見物しよ。中略、金の御もんに八重の堀、まずは見事なかかりかよ。中略、すそはみずうみ ややみごと、ややみごと。よい城よ、見事な城よ。中略と犬神郡大滝村で詠われたそうです。島左近(勝猛)の逸話はこうである。石田三成が武功を挙げたのが、賤ケ岳(しずがたけ)の戦いである。そこで、柴田勝家の軍勢の情報を逐一、秀吉に報告していた。柴田軍、佐久間盛政が大岩山山麓で陣取れば、かかしのようなものに、蓑笠を着せて偽装兵を沢山立てて、盛政を逃げるように仕向けた。物資補給の兵站業務をこなした。一応、賤ケ岳の七本槍として、福島正則、加藤清正、脇坂安治(やすはる)、加藤嘉明(よしあきら)、片桐且元(かつもと)、粕屋武則(かすやたけのり)、平野長泰(ながやす)に大宣伝をしたが、石田三成と大谷吉継と一柳兄弟にも「七本槍に劣らぬ活躍、百万の味方よりも大であった。」と讃美していた。そこで秀吉は、水口四万石(滋賀県甲賀郡)を加増した。その後、秀吉は三成に「何十人の武将を登用したか?」と聞くと、「島左近と言う浪人ただ一人召しかかえています。」にびっくりしていた。左近と言えば、世に聞こえた武将であるのを秀吉は知っていた。それを4万石の内の1万5千石を左近に与えたそうである。仮に令和の今では、10キロ三千円の米を1石150キロで計算すると、45000円になる。6億7500万円に相当するのではないかと思われる。秀吉も三成2万石、左近1万5千石に驚いたが、秀吉は左近に、「その方、何事も三成と相談して、天下政治にも心を配るように。」と言って、自分の羽織を左近に渡したそうでして、秀吉が島左近を素晴らしい武将と認めた証拠となっている。その左近だが、関ケ原の戦いでは、銃創を負って一度は退却したようだが、最後まで戦い抜いて果てたそうです。

今の佐和山城跡です。家康は三成と仲が悪かったかについてだが、そうではない。むしろ、三成を認めていて、自分の部下としてなら登用したいようであった。と言うのは、一度、家康は三成をかばったことがある。関ケ原の戦いの前の話しだが、前田利家が病死すると、尾張衆である加藤清正ら七名が、石田三成に評価を落とされたことを根に持って、三成を殺そうとした。それを家康が仲裁して三成を慶長4(1599年)3月10日に伏見城から佐和山城へ引退させた。三条河原の処刑前には、新しい着物を与えたのだが、家康の部下が「上様(家康)からのもの。」と言って、「上様は秀吉だけ」なんて言って着物を拒否したそうです。

加藤清正がブチ切れた事件がこれである。朝鮮出兵の時である。小西行長は石田三成と仲が良い、加藤清正は小西行長が嫌いで非協力的である。小西行長が明の使者と和議を取り付けたのに、追剥をして和議の邪魔をする。明の使者に、勝手に、「豊臣朝臣清正」と署名する。文禄の役で清正は、自軍の兵糧を賄うために、朝鮮の兵站部から米を借りた。また、肥後領内の秀吉の直轄地でとれた(蔵入米)に未納があった。それを三成が、朝鮮に米の返済と、蔵入米の納入を迫った。三成の潔癖性は有名でして、納めなければ罰金を科すと迫って、「治部少め、苛察(かさつ)にかたむくやつ」と歯ぎしりをしたそうです。「治部少(三成)めとは生涯仲直りはせぬ。朝鮮に在陣しながら一度も戦には出ずに、人のあらばかり嗅ぎまわるやつとは口も聞きたくないわい。」といって、秀吉から悪評価されて、清正は蟄居したそうです。

石田三成は島津義久とは仲が良かった。天正15(1587年)九州征伐で、兵25万、馬2万頭従えて島津氏の城を落とした。最後は薩摩(鹿児島)だけとなった時に、仲裁に三成が請け負った。博多の復興と町の区画を定めて、武士が町内に家を持つのを禁止して、町人だけにした。義久が京に居た一年間、色々ともてなして、早く国に帰れるよう秀吉に頼んだそうです。人質の娘亀寿も一緒に帰れるよう取り計らったそうでして、義久、義弘兄弟は、三成に深く感謝したそうです。関ケ原の戦いでは、伏見城の鳥居元忠(徳川家康配下の武将)に開門を命じたが、断られたために西軍に味方したと言ったそうでして、逆に伏見城を落とした。関ケ原の戦いでは、西軍が敗走する中、義久だけは、家康の本陣に敵中突破して家康を驚かせた。捨てかまりと言って、残った兵がとどまって、追手を食い止める。兵1500人が84人になって、島津義久は、水口(今の滋賀県甲賀)~笠置山(奈良大仏殿から車で20分の距離)摂津~大坂城~霧島~薩摩へと帰城したそうです。朝鮮出兵では島津義久は、敵兵3万8,717人を討ち取ったとされて、鬼島津として恐れられていた。関ケ原の戦いでの敵中突破したせいか、家康は恐れていた。普通は西軍に味方した武将は、改易、減封が普通だが、家康もよほど怖かったのか、島津家には処罰はなかった。よって、改易なし。上洛せよ、島津家は無視、家康とうとう放置となったそうです。

最後は今80歳のオバアネタである。玄宮園=庭園を見たが、こんな感じ。オバアは疲れたのか、城の近くでくたばっていた。軽トラが走ってきたので、ここまで車で行けると思って近づくと、通行止めになっていた。どうやら露店関係の車のみの通行だった。オバアに大手門の駐車場と言ったが、初めて来た場所で分からないとスマホでわめいてた。結局、車を元の駐車場に置いて、再び徒歩で迎えに行った。オバアはウンコをしたがっていた。慌ててトイレを探す。無かった。よって、この建物でするように言った。オバアは嫌がった。その建物がこれ。武家屋敷跡の上に建つ、大津地方裁判所彦根拘置所検察庁のトイレで、「トイレ貸してもらえませんか?」と私が頼み込んで、オバアは猛ダッシュで駆け込んだ彦根城ですな!