今、80歳のオバアの話しなのだが、行ったことない場所へ行きたがります。観光地かそうでないかに関わらずです。会社の同僚が、桜の季節の彦根城が良いと言っていたので、連れて行きました。ただ、京都市内から、彦根インターまで、高速代片道二千円近くかかりました。草津インターで、トイレ休憩と、赤福餅を食べましたな!この草津サービスエリアで面白いネタがある。出入りの運転手から聞いた話しです。竜王インターから、津に向かう予定であった。竜王から名神高速道路を走った。途中、腹が痛くなった。よって、下りの草津サービスエリアによって、長いトイレを済ませた。ここから津へ行こうと思ったのだが、道路の構造上、瀬田東~大津~京都東にしか行けなかった。仕方ないので、瀬田東ICまで走って、Uターンして、草津JCTまで戻って、新名神高速道路~亀山JTC~津で時間ロスしたそうな!厳冬期のあるあるなのだが、大雪が降ると、米原~関ケ原が通行止めになる。そうすると、皆、新名神から名古屋へ行くのだが、12時間も大渋滞で苦しめられて、翌朝には名古屋へ10トン車が行ったきり、一台も戻ってこなかった事件がありましたな!

彦根城の大手門近くの景色です。駐車料金千円しました。彦根城、博物館、庭園のセット料金で1200円しました。秋に1500円に値上げです。城拝観だけなら、800円だが、10月1日から1000円に値上げです。一度きりなので、二人で駐車料金含んで3400円になりましたな!この大手門の地蔵の洞があったのだが、今80歳のオバアは喜んでいた。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山に彦根城の築城を開始した。wikipediaより

城の前に店があった。ここがトンビの被害が多いらしい。と言うのは、アイスモナカや、ソフトクリームを食べると、上空からトンビが急降下して強奪されるそうです。よって、近くのテントの下で食べるように言われた。アイスモナカは200円した。出町柳駅近く、鴨川デルタ地帯で、ロッテリアの紙袋にハンバーガー、ポテト、ジュース入りを袋ごとトンビに取られることを思えば、大したことではない。織田信長は第六天魔王を名乗っている。信長が信心が全くないかと言えば、そうとも言い切れない。あるとき諸国を巡礼している無辺と言う僧侶が居た。「自分は不思議な秘法を持っている。これを授かるものは、現世では災いを逃れ、来世では罪を許される。」とのたまった。令和の今では、電車のガラス扉に貼っているゴテ顔のおっさんを思い出す。信長は「生国は?」と無辺に聞く。「天にもなく、地にもなく、空にない無辺のものだ。」と答えた。信長は、「この世のものは天地を離れて存在出来ない。」との理由で斬首した。理由は効果のない修法で大金を得て、民衆が嘘つきにたぶらかされるのは、この世の損失と言う理由だそうです。比叡山延暦寺の焼き討ちと、一向宗への弾圧も信長なりの理由がある。信長は特定の宗教が、権力と結びついて、信長の政権に反旗を翻すのを恐れているだけである。信長は桶狭間の戦いの前に、熱田神宮で戦勝祈願もしている。春日大社の神鹿の保護もしている。キリスト教の保護をして、布教を許している。京都に南蛮寺の建立と、安土にセミナリオ=神学校の建立を許している。しかも土地と金を寄付しているそうです。ただ、松永久秀は極度のキリシタン嫌いだし、秀吉と家康はキリシタンを弾圧した。

天秤櫓があったが、大したものはなかった。ただ、ここから鉄砲を発射出来て、攻略は容易でない設計となっていた。

これは佐和山城跡である。「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城。」とはやされた名城だそうです。1600年9月15日に有名な関ケ原の戦いがあった。石田三成は敗戦して、伊吹山に逃げる。徳川家康が小早川秀秋に攻落を命じた。脇坂安治(やすはる)と朽木元綱(くつきもとつな)の途中裏切り者も志願して参戦した。家康への点数稼ぎだったと言われる。16日に攻撃をしてたった二日で落城する。三成の父親の石田正継と兄の正澄を始め、大半の籠城兵が討ち死にした。たくさんの子女が崖から身を投げたと言われている。城の内部はなんの装飾もない質素なつくりだったと言われている。後に井伊直政がこの地の統治を任されたが、佐和山城の建材を利用して彦根城の築城を開始した。子の直継が完成させた。

石田三成は無能かと言えば、そうとも言えない。ドイツ陸軍のメッケル少佐が石田三成の布陣を見て、石田三成の完全勝利を予想したそうです。ただ、松尾山の小早川秀秋が裏切らずに参戦する。南宮山の毛利秀元と吉川広家が傍観せずに参戦していたらの話しである。会津討伐の時に、三成は大谷吉継に家康への挙兵を打ち明けた。一言、無謀な戦いと称した。理由は三成には人望がない。と言うのは、三成は普段から横柄で傲慢だと批判していた。よって、秀吉の威を借る冷徹な官僚のレッテルを貼られている。よって、吉継の忠告は、毛利輝元を総大将にして、三成は影に徹するべき。ただ、毛利輝元が大坂城の豊臣秀頼を総大将にして、参戦すれば、加藤清正と福島正則を始め、豊臣恩顧の武将は手を出せずに、家康は敗戦すると言われたそうです。結果として三成は三条河原で処刑されたが、長男の石田重家は、西軍敗戦を知ると、妙心寺塔頭の寿聖院に入り剃髪。寿聖院住持として長命を保つ。次男の石田重成は、杉山源吾と名乗って、今の青森の津軽家に仕えたとされる。三男の八郎は、石井八郎右衛門と名乗って備中吉田村で農民として庄屋となる。子孫は石田姓を名乗る。娘の辰子は、陸奥弘前藩藩主、津軽信枚(のぶひら)の妻となる。よって、石田三成は、青森の津軽家と縁がありますな!

幕末の彦根藩主の井伊直弼です。31歳まで不遇で、他家を継ぐ機会に恵まれず、武道と学問の鍛錬を近くの埋木舎(うもれぎのや)で行っていたそうです。「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておさむ心なき身は。」と競争から離れて厭世的な心情を詠ったようです。有名なのが、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結し、将軍家定の跡継ぎを紀州藩の徳川慶福(とくがわよしとみ)と定め、また、それらに反対した藩主・徳川慶篤やその父・斉昭が弾圧された。(安政の大獄(あんせいのたいごく))。その報復で、桜田門外の変で、元水戸藩士によって暗殺されます。

彦根城の階段は、二段ベッドの階段の如く急傾斜でして、これで今80歳のオバアがヒイヒイ言っていた。伊吹山と多景島だと思われる。城から見た庭園、玄宮園もある。城は見る価値があるが、二回目はと言えば、記憶が薄れる頃となりますな!次は彦根城周辺です。