75歳のオバアネタだが、何を思ったのか、日中の気温が38度の日に限って、仏閣に行きたがる。訳分かりません。しかも行ったことない所を望むので、京都山科駅から南、地下鉄東西線小野駅西にある勧修寺へ行きました。駐車料金無料、入山料金400円です。寺の正式名称は「かじゅうじ」と言うそうです。だが、「かんしゅうじ」と入力すれば、一発で検索できます。

画像がピンボケです。デジカメを自宅に忘れて、スマホ撮影したのだが、気温が36度を超えて、一撃でスマホが高温で機能しなくなるほどの気温でしたわ。この後にシステムダウンです。それはさておき。勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。wikipediaより。

昌泰(しょうたい)三年(900)醍醐天皇が母后藤原胤子(いんし)のため、外祖父宮道弥道(みやじいやます)の居宅を改めて仏寺となし、醍醐天皇等身の千手観音像を安置したのが始まりとされています。醍醐天皇の祖父藤原高藤の諡号勧修寺(しごうかじゅうじ)を寺号とされたからです。天喜年間(1053~58)、失火のためにお堂が消失したそうだが、後伏見天皇の皇子寛胤(かんいん)法親王(1309~76)が当寺の長吏に就任されて以来、法親王の住院となり、勧修寺宮門跡と称されました。この寺の創建に面白い話しがあります。

平安時代の始め頃、閑院大臣と称された藤原冬嗣(ふゆつぐ)(775~826)の子良門(よしかど)に、高藤(たかふじ)が居た。冬嗣の孫である。高藤が15歳か16歳の頃に、南山階(やましな)、六地蔵~山科の中間くらいに鷹狩りに出かけました。だが夕方に雷雨に遭って、宇治郡の郡司、今の市長クラスの宮道弥益と出会って、雨宿りの場所を提供したそうです。夜になって、宮道弥益の娘、年齢は13歳~14歳が蘇芳色の衣に袴を着けて、扇で顔を隠しながら、アワビや鶏肉の料理を運んだそうです。高藤は娘を気に入り、一夜の契りを交わしたそうです。分かりやすく言えば、ミトノマグワイヤーですわ!分からない人はお父さんに聞いてね!何とも早熟ですわ!成人した後に高藤が再びこの地に訪問すると、5歳~6歳の女児が居たそうです。高藤の子だそうです。それが縁で、娘を嫁に迎えたそうです。列子と後に言われて、その子は胤子と呼ばれた。高藤は大納言になり、宇多天皇は、高藤と列子の娘、胤子を正妻に迎えたそうです。醍醐天皇が中央勢力となるに従って、高藤は内大臣になったそうです。その醍醐天皇が、宇多天皇と胤子皇后、祖父の高藤、祖母列子の追善をするために、真言の一寺院を建立して勧修寺となったそうです。

この先に行かれるのは自由ですが、大いに危険の看板にビビりました。何が危険なのか?

アナコンダでもいるのか?強烈な霊障を与える亡霊でも出現するのか?後で聞くと、足元が根だらけでこけやすいとのことです。しょうもないですわ!

75歳のオバアの希望で、六地蔵さまに参拝、その後にイズミヤ六地蔵店で休憩しましたわ。

最近、お中元で入船の炭火焼きのウナギをもらった。普段は牛丼店のうまくない中国産のウナギばかりですわ。どう見ても、昼勤務の人材派遣の日当くらいするだろう。食べたが美味かったですわ。75歳のオバアは普段はリンゴみたいな安物の桃しか買わない。よって、腐りかけの和歌山産のあらかわの桃、三つ1580円の割引948円を購入した。久々に柔らかい果肉の桃が食べられてうれしかったですわ。こんな感じです。