第一次政権時は、江川卓、西本聖。第二次政権時は、斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己。
巨人軍における80年以降の投手王国とは、藤田監督によって作られたものであった。
ダンディで、温和で、球界の紳士と呼ばれていたが、若いころは相当な悪だったようである。
巨人のOB会長をやったり、沢村賞の選考委員をやったり、巨人の監督を七年やったり(日本一2回)球界の重鎮なのだが、現役時代の通算勝利数は113と決して多くない。
だが、これ、実働八年での数字である。ノンプロを経て25歳でプロ入りなので、当時としてはプロ入りそのものが遅い。そして、年間で29勝、27勝などを積み重ねた結果、登板過多で・・・・というパターンである。
長島のあと、王のあとに監督を務めた。いわば、原の合間に「つなぎ」をやらされた堀内と状況は似ているのである。だが彼は結果を出し、また遺産を次世代に残していった。
私にとって、一番印象に残っているのは、89年の近鉄との日本シリーズである。
3連敗の後に、なんとか香田の粘投で一勝をあげたあとの第5戦。後がない状況に変わりなし、という中、当時の4番、原辰徳はなんと4試合ノーヒット。
そしてこの5戦、斎藤雅樹、阿波野秀幸という両エースの投げ合いで、2-1とG1点リードの緊迫した状況で、シリーズの流れを決定づける打席が原に回ってくる。 目の前で、クロマティが敬遠されての二死満塁。原は自身で生涯最高の本塁打と語る一発を、吉井理人から放つのである。
短期決戦の中で、原を信じ続けた藤田。それに応えた原。このとき、藤田監督が「絶対打てる」と何度も暗示をかけたという逸話も残っている。
結局、巨人は奇跡の4連勝をとげ、自身2度目の日本一に輝いたのだった。
翌90年は、斎藤、桑田を中心にぶっちぎりのリーグ優勝も、西武の前に4連敗の屈辱。これが藤田監督が最後に優勝した年であった。
まあ、とにかく原現監督や大ベテラン・桑田が藤田氏から受けた影響を考えると、この恩師が亡くなった年に、原監督は日本一で、桑田は一年間先発ローテを守るとか、そういうことで応えるしかないわけである。本当に、藤田監督に捧げる優勝を、今年は見せてほしいものである。
ちなみに、藤田氏が監督をつとめたころは補強といえば、中尾やガリクソンくらいなもので、今の大砲ブームから比べると、「育成」が巨人の現場でもきちんと行われていた。古き良き?巨人を育てた名将といえよう。
ご冥福をお祈りします。
(上部の顔写真とも毎日新聞社)
