「古事記の物語」のカテゴリーで、この部分は一気にご紹介させて頂きましたが、このオオクニヌシさまの国づくりというのは、日本神話の中でどういう意味を持つのでしょうか。
ポイントを整理してみたいと思います。
①イザナミさま神避り以来の国づくりの再開であった。
②物語は「因幡の素兎」からはじまった。
③兄にあたる八十神の妨害にあって、二度も死に、二度とも生き返った。
④その後、スサノオによって鍛えられる。
⑤スサノオの娘を嫁とし、大国主神の名を貰い、葦原中国を託される。
⑥スクナビコナと出合い、国づくりを完了させる
⑦大物主神から自分を大和に祀り奉るように言われる。
⑧いずれも出雲の国の出来事である。
以上です。
さて、この①~⑧は、どれもみな、オオクニヌシさまご自身、及びその国づくりを象徴しているものであります。
わたくしは本文でも指摘をしましたが、まず、何故か最初に「白兎」の話が出てくるのはなんとも不思議なんです。
しかもこの話は「日本書記」には全く出てきません。
ここはなにを現しているのかというと、これから暫く主役の座を張る「オオクニヌシ」というひとは、いままで出てこられた神さまとは違いますよ。もっと人間のようなひとなんですよ。と、敢えてそのエピソードとして入れているにすぎません。
しかし、この「白兎」の話は出雲以外にも昔話として伝承していたために、後年、ここの部分だけ際立ってしまいました。
また、もうちょっと違う観点からみますと、ここは傷ついた白兎を治療しているのがポイントです。そういうことに長けていたとみる向きもありますが、そこではなく、高天原の神々と違って、自己の霊力を使って治癒できない、自然の薬草を用いて病気や怪我をなおす。
そう、そういう意味では、やっぱり神さまではなくて、人間のようなかたなんですよと言っているのです。
それが証拠に、③では、高天原の神さまに助けられ、生き返ります。
実は、この「生き返る」ことも大事なんです。
生き返るということはどういうことでしょうか。
例えば、他の例で、イエスキリストはゴルゴダの丘で十字架に磔にされ処刑されます。
しかし三日目に蘇ります。
これは、人間を越えたということなんです。
ここ、大事なんですが、神になった訳ではないのです。人間を超越したから、蘇生したのです。
基督教ではそう解釈しています。
恐らく、時代的にみて、このオオクニヌシさまという存在をもっとも端的に表現する。そう高天原の神ではなく、でも人間では国づくりはできない。そのために取られた措置、与えられたキャラクターが、このオオクニヌシという存在なのです。
④⑤でスサノオさまと出会います。
スサノオさまはこのときに「葦原色許男大神(アシハラシコヲ)」だと言ってます。つまり、「日本の屈強な男」だと意味です。
ここはスサノオさまに出会うことも大事なのですが、それよりもスセリビメを娶って、スサノオさまの後継者になることが大事なんです。
しかも、そもそも備わっている智略のお陰で、まんまとスサノオさまを惑わせたことにより、スサノオさまより、娘を娶ることと、葦原中国を支配して良いというお墨付きまで頂いてしまいます。
⑥のスクナビコナさまは、神皇産霊神(かみむすびのかみ)のお子様です。つまりれっきとした天津神さまです。ここは敢えて細かいことは書いてありませんが、実際に国づくりを施行したのはスクナビコナさまです。その証拠が、この神さまがとっても小さいこと。小さいから、普通のひとには見えないのです。
だから、中つ国のひとたちはみんなオオクニヌシさまが一人で国づくりをなさったと思われているのですが、違います。
そしてポイントは⑦、⑧です。
⑦は、スクナビコナさまからのメッセージにも聞えますが、さらに言えば、天つ国の神々からのメッセージです。
そして、大和を崇拝するように言われますが、同時にこの大物主神さまという神さまは、オオクニヌシさまの別名ともご自身とも言われています。
これ、どちらも正しいのです。分かりやすく言えば、スターウォーズで、オビワンケノービが、自ら亡くなって、ルークスカイウォーカーに入りました。
そう、ルークはまだフォースの使いかたにムラがあったからです。オオクニヌシのそれも同じです。大物主なのか、それもスクナビコナなのか、はっきりしませんが、いずれにしてもオオクニヌシさまの一部になった。
ここが大事なんです。
そこで⑧なんです。
これは、天津神が国津神の魂に宿った。そしてイコールそれは、大和が、出雲に入りこんだことになるのです。
つまり、オオクニヌシさまの国づくりというのは、すべて、高天原で考えられたシナリオ通り、そしてイコールそれは、出雲の国という一大勢力を自在に操って、大和という中央支配が進んでいったということ。
そう、「白兎」伝説が日本の全国各地にあるのは、出雲だけでなく、地方の有力豪族はこのようにして徐々に中央に取りこまれていったという証なんですね。
このようにして、古事記本編は、次に「国譲り」へと移っていくのです。