恋をするということは、いや、しているということは、「鳴ってない携帯電話の着信音が聞こえる事」だと思った。

良い言葉が思いついたと思ったけど、そんなことないか。

シャワーを浴びてるときに思い付いた。
歯を磨いているとき、お風呂に入っているとき、
ふと、着信音が聞こえた気がして確認するけど、それは多くの場合幻聴だった。

いや、心の中では確かに鳴っていたんだろう。

意味もなく携帯の画面をみる。
意味もなく携帯を放置して、少し時間が経ってメールがきているか確認する。

その全てには意味がない。
第三者から見れば意味がないことが、恋なのかもしれない。
思えば俺は中途半端に大きくなり、そんな恋をしているだろうか?

その時思ったんだ。

俺は今までどんな女性に恋をしてきたんだろう?
どんな女性に意味のない事をしてきたんだろう?

思い出は、特に恋の思い出は、概していい思い出となって心にある。
少なくとも自分はそうだ。
かつて自分が全力で恋をした女性に、今会ったらどうなるのだろう?

もしかしたらもう一度その相手に恋をするかもしれない。
もしかしたら相手に失望するかもしれない。
もしかしたら昔できなかった話ができるかもしれない。

どうなるかは分からないけど、なんだか興奮するんだ。
ただの興味かもしれないけど、理由はそれで十分だと思う。

先日高円寺に行った。古着を見ているうちに、ふと思った。ブルセラと何が違うんだと。僕は下着を見ても興奮しない。好きな子の下着を見ても興奮しないだろう。それはただの性癖の違いだと思う。ということは、ということはだ。下着じゃなくて、女性が着たシャツやスカートに性的興奮を覚える人間がいてもおかしくない。いや、むしろゼロということは有り得ないだろう。だとすれば、だとすればだ。そういう人間にとって古着屋はこの世の天国なのではないか。ましてや古着王国の高円寺なんかはどんな風俗繁華街よりも魅力的なのではないか。考えているうちに吐き気を覚えたのでそれ以上考えるのはやめた。
そんな夜だ。