ふっと気を抜いた瞬間に、沢山の物が、流されてしまいそうになる。
常にギリギリの状態で、信じて踏ん張り続けている、状態だ。
信じる物が崩れてしまえば、踏ん張る足下もろとも崩壊する。
それだけはあってはならないと、私のプライドに懸けてあってはならないと、
少し前の足下を、確かめながら匍匐前進をしているような状態が続いている。
そのうちに、信じるものの為ではなく、
ほとんどプライドの為に踏ん張いる自分がいる。
本当に、純粋に好きな物の為に踏ん張れているひとって、
どのくらいいるのだろうと思う。
好きな物は好きで、思い描くものを実現させるためには、
力がいる。
体力、精神力がいる。
それを、純粋に好きだという気持ちだけてどこまでも行ける人は、どのくらいいるのだろう。
そういう人が、本当に凄い人なのだろう。
私はどうだろう。
疲れすぎると、分からなくなる。
ただ、今まで歩んできた道と、積み上げたものと、何よりも、私のプライドが、
後退することを許さないだけで、
時々わからなくなる。
絵は、好きだ。
でももう、子供みたいに、24時間、一瞬も忘れることなく、そう思うことはできない。
高校生の頃は、本当にそうだった。
腕が捥げようが、目が見えなかろうが、這いつくばってでも描けるだろうと思っていた。
そのくらい、好きだった。
今でも好きだ。
でも、今は、進み続ける理由の半分が、何からも逃げたくない意地と、自分にも、他人にも負けたくない意地だ。
苦労を想像していただけの頃の様にはいられないのは当然かもしれないけど、
何が正しいのか分からなくなる。
でも、いつのまにか、負けないこと、逃げないことを理由に
いろいろなことの言い訳にもしてしまいそうで、
それを逃げる為の理由にしてしまいそうで、
何が偏らない答えなのかわからなくなる。
自分を信じ続けることは、多分できるだろう。
そうしなければ、生きてはいけない。
そういう境地までもう来ている。
でも、それはどこまでが正しいのだろう。
何か、正しい答えなのだろう。
どうしたら、何からも逃げないですむのだろう。
私はプライドが高すぎる。
とりあえず、見切り時は25の誕生日だとずっと決めている。
それまでに、自分の望むところまで到達出来ていなければ、
すべて捨てる。
それは、覚悟だ。
未来は、途方もない。
常にギリギリの状態で、信じて踏ん張り続けている、状態だ。
信じる物が崩れてしまえば、踏ん張る足下もろとも崩壊する。
それだけはあってはならないと、私のプライドに懸けてあってはならないと、
少し前の足下を、確かめながら匍匐前進をしているような状態が続いている。
そのうちに、信じるものの為ではなく、
ほとんどプライドの為に踏ん張いる自分がいる。
本当に、純粋に好きな物の為に踏ん張れているひとって、
どのくらいいるのだろうと思う。
好きな物は好きで、思い描くものを実現させるためには、
力がいる。
体力、精神力がいる。
それを、純粋に好きだという気持ちだけてどこまでも行ける人は、どのくらいいるのだろう。
そういう人が、本当に凄い人なのだろう。
私はどうだろう。
疲れすぎると、分からなくなる。
ただ、今まで歩んできた道と、積み上げたものと、何よりも、私のプライドが、
後退することを許さないだけで、
時々わからなくなる。
絵は、好きだ。
でももう、子供みたいに、24時間、一瞬も忘れることなく、そう思うことはできない。
高校生の頃は、本当にそうだった。
腕が捥げようが、目が見えなかろうが、這いつくばってでも描けるだろうと思っていた。
そのくらい、好きだった。
今でも好きだ。
でも、今は、進み続ける理由の半分が、何からも逃げたくない意地と、自分にも、他人にも負けたくない意地だ。
苦労を想像していただけの頃の様にはいられないのは当然かもしれないけど、
何が正しいのか分からなくなる。
でも、いつのまにか、負けないこと、逃げないことを理由に
いろいろなことの言い訳にもしてしまいそうで、
それを逃げる為の理由にしてしまいそうで、
何が偏らない答えなのかわからなくなる。
自分を信じ続けることは、多分できるだろう。
そうしなければ、生きてはいけない。
そういう境地までもう来ている。
でも、それはどこまでが正しいのだろう。
何か、正しい答えなのだろう。
どうしたら、何からも逃げないですむのだろう。
私はプライドが高すぎる。
とりあえず、見切り時は25の誕生日だとずっと決めている。
それまでに、自分の望むところまで到達出来ていなければ、
すべて捨てる。
それは、覚悟だ。
未来は、途方もない。