人間と言うのはエゴの塊である。

そんな事は初めから分かっていたのに不覚にも昨日

そのエゴで自己嫌悪に陥る。

昨日久々にいとこと話をした。

いとことは生まれた時からの付き合いである。

年に1,2回しか会わないが

会うことをいつも楽しみに出来る親戚の一人である。

真剣な話だ。実にまじめな話だった。

その中であたしの自論である

『長生きはしたくない』

という事を主張した。

あたしが長生きしたくないのは

長生きとは生き恥を晒すだけのくだらないものだと思っているからだ。

長々だらだらのうのうと生きるのなら

短い間でも必死に濃ゆく懸命に生きれたらそれでいいと思うからだ。

ハッキリ言うと恐いのかもしれない。

老いて尚必死に生きようとする人間を今まで何人も見てきた。

その懸命さが恐いのかもしれない。

しかし

あたしが言ったその自論に対していとこは真剣に悲しそうな顔をした。

その時思った。

あたしの自論はもちろんあたしのエゴだ。

あたしの主張はもちろんエゴの塊だ。

それを聞いて悲しそうな顔をした

いとこに対して

自己嫌悪を覚え

悲しませていることに今まで気づかず

何人の友人たちにこの自論を語ったのだろうと考えるのも

もちろんあたしのエゴである。

あたしは友人が死にたいと

もしも言ってきたとしてもそれを止めはしない。

人の死期などは自分で決めるものでも無いし

決めれるものでもあると思っているからである。

しかし

悲しい と思うのはあたしのエゴで

自論に反していることも分かっている。

生後間もない子と100歳過ぎのおじいちゃんが死んだとする。

しかし

その二人の命が同じ重さであるならば

どちらが可哀相でどちらが立派な死なんていう事はないはずである。

しかし

人と言うのは残酷でその人に対する

希望や期待 不安と失望で

人の死を判断してしまったりする。

遠い親戚が死んだとてその事に悲しみが沸かなかったり

近い友人が死んで悲しみに明け暮れたりするのは

人のエゴだ。

あたしはそんな事を考えながら

夜の高速道路を走って帰ってきたのだが

何度通っても同じように幻想的な高速道路の綺麗さに

不意に父親を思い出し切なくなった。

この道は何度も通っている。

最初は家族で 父親と二人で

親戚一同で 友人と一緒で 一人で…

何度通っても幻想的で綺麗なこの道とは対照的に

あたしは変わりすぎた。

そう考えるのもエゴだと知りながら

少しだけ泣いてしまった。