エドガー・ドガ 「浴盤」(1885-86年)(ヒル・ステッド美術館)

 

 

ドガのパステル画を見ると、子どもの頃に預けられてた祖父母の家の内部、

「裏」と呼ばれてた部分を思い出す。

 

理髪店になっていて絶えず人の気配がする「表」とは対照的に、

「裏」はいつもひっそりとしていて、

絵画に見えるザラついた質感とか、昼間の光が差してるのに薄暗い感じとか、

空気がとてもよく似ている気がする。

 

保育園~小学校時代のその時から、

わたしが世界を眺める感覚は、今も全然変わっていない。

 

 

結果を出すことを求められて、そのためには今のままの自分では足りなくて、

ではどんな私であるべきかを試行錯誤した1年だった。

そして今年は本当に、意識的に絵画と対峙することをしなかった。

きっと、すでにある自分と向き合うことを避けてたからだと思う。

 

絵画との対話......わたし以外に誰もいなくなるその空間からやってくる言葉や感覚は、

確実にわたし自身からのものだと理解できる。

それが既知でも未知であっても、「わたしはそれを知っている」という感覚。

 

今年は、そういった意味での“わたしの感覚”はいらなかった。

あってはいけないとさえ思っていた。

 

それ自体がよくないことだとは思わない。

でも年末になって、「あなたはどうしたいのか」「何を伝えたいのか」「どう在りたいのか」

を、立て続けに問われるようなことが続いて、

「ない。これまで以上になんにもない。ていうかむしろなくしたい。。。」

という本心に気づいて以降、どんどん力がなくなっていくのがわかった。

 

モヤモヤしつつも今年もあと数日に迫る今になって、

絵と向き合っている時に訪れる、自分自身という実感を思い出す。

 

自分の感覚を信じることも疑うことも、自分でいることも他の誰かをトレースしてみることも、

来年はもうちょっとバランスをとれるようになれたらな。

久しぶりに自覚した自我の繭の中、「裏」に連れ戻されて、当時聞こえていた音も蘇る。

ただここは、とても静か。