「閑雅な食慾」

 

松林の中を歩いて

あかるい気分の珈琲店をみた

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。

をとめは恋恋の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいそう閑雅な食慾である。

 

 

 ・・・『青猫』 萩原朔太郎(1923 新潮社)

 

 

子供の頃、周りのものが動くのを優雅に眺めながら、とてもとても退屈していた。

感覚的には独りきりで、自己完結することが可能な世界だった。

誰とも何とも繋がれていない世界の中で、時間の存在だけは恐ろしかった。

 

思い返すと、どのイメージも白っぽくて埃っぽくて、ぼんやり霞んで溶けていくよう。

時間だけが自分自身で、あとの出来事は全部虚構だって、きっと知ってた。

なにも残らないし、なにも私に影響するものはないし、だから、のめり込むことはなかった。

 

 

萩原朔太郎の詩を初めて読んだのは去年のこと。

ああこれ、私だ、と思った。

  それまでは、「作家と自分が重なるようだ」みたいな感想を聞くと、

  「お前どんだけ自意識過剰だよ」って思ってたんだけど(ホントごめん)、

  そういう感覚って本当にあるんですね。。。

 

通常、他者の書いたものに触れて浮かぶイメージはあくまで他者経由のものでしかないけど、

萩原の作品を読んで現れるイメージや体感は、その全てが、ダイレクトに自分のものだと確信できる。

自分の感じたものが作者本人の真意とイコールかどうかなんて、どうでもよくなる。

 

 

目の前で起こることすべて、実体がなくて、虚構で、哀れで、美しくて、憂鬱だ、

なんて感じることは思い上がりだろうか。

そこで生きる情熱も必死さも湧き上がってこないままに世界をぼんやり眺めて、退屈だ、、、なんて。

そして、その退屈さを紛らわすために何かを見つけようとして、何かになろうとして飛び込む行為が、

私の理想とする美しい行為なんだろうか。

そうして私を付け足した世界が、果たして、この自分の望むような美しい世界なんだろうか。