TVでふと見た等伯の松林図が、

怒気をはらんで逆だっているような描写に感じられた。

 

長谷川等伯 「松林図屏風」(16世紀後半)

 

左隻

 

右隻

 

これまでこの絵からは、しっとりしていて穏やかで、柔らかいものしか感じなかったのに。

だからここで感じているものは、画面を通して顕れる私自身の感情だ。

ただそれが不快でないのは、むしろ安堵さえするのは、

その感情が誰かにどこかに向けられたものでなく、文字通り、私だけのものだから。

 

 

ここ半月くらい、なぜかとっても疲れていて、

感覚としては「あの世に還りたい。。。」と切に思うようになった。

なぜここに、この世に来ちゃったの私、、、みたいな後悔。

 

この世では時間の流れがあって、みんなが誰かに、何かになろうとしているように見えて、

つまり、ここからどこかに向かおうとする「指向性」が在る。

目的や目標、理想や希望、願い、私から他者、他者から私へ、、、

 

生まれたものは必ずどこかへ向かおうとするのが必然であるように、

なにもかもが全て「行き先」を持っていて、

生まれた感情に対しても、それを向ける誰かを即座に創り出していて、

絵画の中で得られたような「感じる全てが自分のもの」という安心感がまるでない。

 

動性を持った有り様そのものが生の美しさであるのもぼんやり理解できるけど、

凍結したまま、一瞬が永遠であると感じられるような感覚で留まっていたいと思う。

 

私が「あの世に還りたい」と感じてるのは、「自分に戻りたい」と同義であって、

他者や社会との関係性で結ばれているこの世の自我から離れたいという、いつもの憂鬱。

 

誰かを思いやることも、与えようとすることも、気持ちを汲もうとすることも、

ただただ自分が磨り減っていくようで、

本当は私には、全部要らないって感じてる。