ステパノ氏登場!


彼については作者ルカ、ベタ褒めである。信仰と聖霊とに満ちた人・・・恵みと力とに満ち・・・

よほどすごい人物だったと推測される。


10節、「彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」 とある。

語る言葉を聖霊に示されて語ることはもちろんのこと、もっていた知識も駆使して、ユダヤ人を論破して

いたと思われる。


このステパノ氏、新約のアポロと同様、なかなか学識もあったのか。ペテロとはまた違うタイプの人物が

神様によって用いられているのはうれしい。ペテロは御霊によって語ることはあっても、知恵によってと

書かれている箇所はみあたらない。それよりも、使徒3章では、無学である・・・という理由で驚かれて

いるのだから。


ここでいう知恵は、あえて知恵と御霊と分けてあることからすると、聖霊の表れとしての知恵のことばでは

なさそうだ。いろんな賜物の人がいて、とても楽しい。自分を神様がどのように使ってくださるか、楽しみにしていよう。


ところで、7節に多くの祭司たちが次々に信仰に入ったとあるが、じゃぁ、今まで彼らは何を信じて祭司

などやっていたのだろう。何を信じて・・・ 素朴な疑問である。

むか~し、むか~し、 イスラエルに生まれつき足のきかない男がおってな、毎日神殿の門に

運んでもらっては、行き交う人々に憐れみ乞うて生活しておったそうな。


そんなある日、いかにも田舎漁師風の男が二人、その男の前を通りかかった。そこでその物乞い、

いつもの口上で施しを求めたそうな。


すると、そのうちの一人が 「私たちを見なさい。」 って言うじゃないか。物乞い、これ幸いと

二人を愛想よく見つめると、なんと ・・・



「金銀は私にはない。。。」(汗)


 しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。


きっと足の不自由な男の人、一瞬ガクッ としたんじゃないかな?


しかし、聖霊に満たされると人はこんなにも大胆になるのだなぁ・・・ (・-・)…ん?


ペテロはもともと大胆か・・・ 水上歩行を願い出るほどだからね。でも、決定的に違うところは、

自分の自慢、自分が良く見られたいっていう動機ではなく、イエス様の御名に力があることを

大胆に証ししているところだ。


ユダヤ人たちに、あなたがたがイエス様を十字架につけたのだ、と責めつつも、無知ゆえに

あんなことをしてしまったのだから、悔い改めなさい と愛をもって語りかけているのだ。

この性質はもともとのペテロにはなかったのではないか。


彼らのように、大胆な信仰と、聖霊によって人々に話しかけ、本当の必要を満たす働きをこれから

もっともっとやっていきたい。私も「金銀はない」という点では同じなのだが・・・

(続き)

さて、ここからが一番覚えていたいことなのだが・・・


今回の母の死という出来事を通して、たくさんのことを感じ、学び、成長できたと思うのだが、そのうちの

2つを記録しておこうと思う。


一つ目は、霊の家族、神の家族の大切さである。


通夜当日とその前夜、どうやら仏教では寝ずの番をして線香を焚く習慣があるらしいのだが、あまり宗教

熱心でない実家では、蚊取り線香のようなぐるぐる巻きの線香に火を付けておくのだが、やはり火の番を

しようということで、交代で夜を過ごすことになった。ロウソクと線香を灯しながら過ごす夜中はさながら

24-7の祈りのようで、聖書を読んだり、祈ったりしながら夜を明かした。


その中で神様が語られた言葉があった。


「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」しかし、イエスは

そう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、兄弟たちとはだれですか。」

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟

たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また

母なのです。」(マタイ12:47-50)


確かに私を産んでくれた母は一人であり、その母は今、永遠の行き先に向かって行った。繰り返すが、

彼女のファイナルアンサーは神のみぞ知るところである。しかし、私には肉親の家族とは別に、霊の家族、

永遠の絆で結ばれている家族がおり、その一人一人が兄弟、姉妹、母なのだ。


天のお父さんと霊の家族がある限り、私は決して孤独になることも、見捨てられることもない。セルという

家族的コミュニティーの中で養われた、安心の土台が私に揺るぎない平安を与えてくれた。それはセルの

仲間たちだけでなく、ICBCの仲間たちや、遠くにいて思ってくれるすべての兄弟、姉妹たちが与えてくれた

平安である。



二つ目は、神の主権の元に生かされているという安心感である。

「私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです」 (使徒17:28)


私は4人兄弟の末っ子である。そして、なぜか上の3人はお店を経営してたり、自分で事業を興している。

また、亡くなった祖父母は半農半商(駄菓子屋)、いとこも商売をしているという商人の系図である。

(ちなみに、私にはその才能はないだろうと思う)


そんなわけで、私の兄弟たちは皆忙しく、母の世話をしたいと思っても、時間をつくることが難しかった。

しかし、私はICBC事務所のスタッフで、比較的柔軟に行動することができた。


話がそれるが、ICBCのよい風土で、今年のビジョンでもあるのだが、ジョシーは常々スタッフの行動、

仕事を管理することはしない。(もっとも管理したいとしてもできないが・・・)いつも言うことは、


 「自分で神に聞いてやりなさい」 である。


一応朝9時~5時という時間は決まっているが、その日の優先順位によっては、それぞれが人に会うために

出かけていたり、仕事に出かけていたり、奉仕で留守だったりと様々である。自分と神との関係が第一で

ある。もちろんチームワークを軽んじたりはしない。一人一人が神に相談して決めるからそれほど的外れな

行動はないからだ。そして、自分たちが自主的に決めて行動するので、嫌々動くことはほとんどないし、

楽しい。もちろんその分、責任はあるけどね。与えられた時間、賜物を自分で忠実に管理するって、大人

の領域だよね。


 -閑話休題ー


私はクリスチャンであって、仏式の葬儀で焼香をしたり、墓参りをするわけではないので、母の生きている

間にできる限りの愛を表現したいと願っていた。死んでから何をしたって、それは私にとっては、供養という

言葉を使った自己満足にしか思えなかった。母と過ごす瞬間、瞬間が楽しく、貴重な思い出になった。


4人兄弟、みなそれぞれに深い愛情を母に抱いていたとは思う。しかし、生前に過ごした時間、記憶、写真、

思い出、誰よりも多くのものを私は得たと思う。それは願っても叶えられない事情があることを思うとただ

ただ神に感謝である。


しかし、通夜のあった5日、一つの疑問が私の頭をよぎった。 ”自己満足” - 生前してあげられることを

母にして、自分は精一杯やった、やれることはやったと思うことだって、自己満足、永遠の行き先に触れる

ことをごまかすための自己満足なんじゃないか・・・ 自分はやれることはやったと思っていても、本当に

天のお父さんが、母にしてあげたかったことを自分を通してできたんだろうか・・・


そんな疑問を宣教師のユキさんにもぶつけてみた。彼は私のために祈り、ハグしてくれた後、神の主権

の中に僕らは生きているんだと話してくれた。自分が何かできた、できなかった、何かしてあげられた、

してあげられなかった、という次元の話ではなく、すべては神の主権の中で動いていることだから、僕らを

通していつでも神様は最善を行なうことができるんだよ、そんな内容のことを話してくれた。


やっぱり、天のお父さんは大きかった。私が何かできた、できなかったと考えているとき、それはたぶん

神様の主権の中で、という意識がとんでいるのだ。


そう、2005年末、うすうす母の死も心の片隅にあって、2006年が神の流れがますます速くなることを

感じ取っていた私たちに、神様が一番伝えたかったメッセージは、神の主権だったのかもしれない。


神の主権を認めること、すべての道で主を認めることは、自分の意思や決断で認めますとか、認めたく

ありませんと選択することではなく、あらゆることの中に神の意図、計画が含まれており、すでに神が

その場所で働き始めている軌跡、しるし、もっと言うと神の存在、臨在、見えざる神の御手をキャッチする

ことではないかと思う。


幸いにして、私は、「私にとって永遠の行き先を知らない母の死」という現実の中に、神の主権、臨在、介入

(何と表現するのが適切かわからない)をキャッチすることができた。だって、そうじゃなければわざわざ

正月ムード真っ最中に母を取り除く必要はないでしょう?


神がご存知で、そして神が介入しておられる事だと気づけば、どんなにつらいことも、ショックだと思われる

ことも、ポジティブになる。だから自分でも驚くほど、心が平安でいられるのだと思う。しかし、それは私に

何かあったからではなく、成長したからでもなく、多くの人々の祈りと、神の憐れみゆえのボーナスだろう。


2006年、本当に波乱万丈の幕開けで、この崩壊前夜の日本に、神様の働いておられる足跡、軌跡が

いたるところで見られるようになるだろう。そして、ますます神の津波の勢いが、速く、力強く押し寄せ

ようとしているのを感じる。


最後に母の死を総括するならば、神様が私のハドメを外してくださり、「今だよ。今、私が起こしている波に

乗るときだよ。」とそっと背中を押してくださった出来事だと思う。今までの私は、いろんな神の働き、流れ、

ミニストリーを見てきた。そしてよくよく、観察してきた。すばらしい働き、価値のあるミニストリーは多く、

自分にできることがあれば、協力したいと思ってきた。


しかし、100%のエネルギーを傾けて、特定の働きやミニストリーに賭けるということはしてこなかった。

それは、もちろん神様からの強い促しをキャッチしなかったからでもあるが、入院中の母のことが心の中に

あったからである。母に何かあったときには、いつでも自分が行動できるように・・・ そんな気負いがあった

かもしれない。


しかし、神様はそんな私のこともご存知で、ご自身の計画と流れの中で、声をかけ、母というある意味

私にとってハドメとなっていた存在を取り去ることで、「今、来なさい。私の流れの中に身を投じて、私に任せ

なさい。」と召してくださったのではないかと思う。


そして同時に人を愛する、一人の人を時間をかけて愛するという訓練の、第一段階卒業でもあった?

(免許皆伝までは、まだまだ)


さて、神が人を召すとき、それは最高の喜びでもあり、光栄でもあるが、責任がある。それでも、ユキさん

の言葉を借りるなら、「大丈夫だよ。人が何か新しいことをしようと思っても、実はそれは新しいことでは

なく、すでに神様が始めておられることに参加するだけだから」 である。


プー伯爵、人生の転機を迎えるの巻である。


※と偉そうなことを言っても、やはりみなさんのお祈り、支援があって助けられている小心者です。

  これからもどうぞ、よろしくお願いします。

今日はICBC事務所がお休みなので、自宅でゆっくり過ごしている。とはいえ、先週は正月休みと

母の葬儀があって、ほとんど顔を出していなかったのだが・・・


慌ただしかった1週間を振り返りつつ、与えられた恵みと今の心境を記録しておこう。


昨年12月22日に、「夫婦の日」と勝手に2人で決めて、いつもより豪華な食事を終え、片づけをしている時

だったと思う。


「クリスマスや正月が近づいてるんだけど、全然ワクワク感とか浮ついた気分にならないよね~。新しい年を迎えて心機一転とかじゃなくてさ。」


「そうだね。何となくこれから起ころうとしてることが、具体的にはわからないけど、今までの年とかよりも

現実味を帯びてるっていうか、今年の延長線上に来年があるって感じがするよ。」


「そうそう、なんだか2006年はすごいことが起きるっていう現実が見えそうで見えないっていうか、見え隠れしてるんだよ。」


そんなような内容のことを夫婦で話し合っていた。このとき、すでに私たち夫婦の霊は、正月に起ころうと

していることを感覚的にキャッチしていたのだと思う。もちろんそれが1月3日に起ころうとは予想もして

いなかったのであるが。



年末年始、私たちは毎年恒例となりつつある、実家を渡り歩き、正月料理を楽しむ中で、少しずつ緊張感

が解けていった。そして迎えた3日。この日は同じセルの仲間が、母の病院へ祈りに来てくださるということ

だったので、午後2時過ぎに合流して、母の入院する病院へと向かった。


 母がその生涯を閉じる、4時間半前のことである。(「その時、歴史は動いた=NHK」 風に言うと)


その日見た母は、かなり息づかいが荒く、今までよりもかなり苦しそうに呼吸をしていた。異変を感じた

自分は看護師の詰め所へ行って、母の呼吸がいつもと違うことを話して様子を見てもらった。


そんな母の様子を一瞥した看護師は、「いつもよりいいほうです。」と話すと血圧と体温を測り、病室を

後にした。「いつもより、いい」 最近よりも明らかに息づかいが荒いのに・・・ 多少の引っかかりは

あったものの、私たちも祈り、病院を後にした。


その後、夕方に24時間交代で勤務中の父から電話があり、母の容態が急変したので、すぐ病院へ

向かってほしいとの連絡を受けるも、到着時は、母が息を引き取った5分後であった。


そこからのことは、葬儀も仏式であったし、特筆することもないので省くが、とにかく今までの人生でも、

これほど一日一日が長く感じられた日は記憶にないほどであった。葬儀の手配、弔問者の応対、

親族への連絡、目まぐるしく動き回った。


その中で、セルの家族がメールや電話で励ましてくれたり、通夜には仏式にもかかわらず、多くの

仲間が足を運んでくれたりしたことは、私にとっても妻にとっても、大きな喜びと支えになった。

(続く・・・)


長くなるとよみづらい(?)ので、別の記事として続きを書きます。


使徒の働きは別称「聖霊の働き」と呼ばれることもあるそうです。その名称通りイエス様が天に戻られて、

代わりに地上へ来てくださった聖霊様が、いかに弟子たちを通してイエス様を証しされたかの記録です。


◎約束された助け主

「私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その

 助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」 (ヨハネ14:16)


十字架にかかる前にイエス様が弟子たちに約束された聖霊様が、もう間もなく降られるところである。

弟子たちは、イエス様と3年半の間いっしょにいたにもかかわらず、お世辞にも力ある業を行なったとは

言えないようである。


ところが、聖霊様が臨み、ともにおられるならば、力を受けて全世界にイエス様を伝える証人と変えられる

というのだ。あの弟子たち、そして私自身がである。


 なんでだろぉ~ぉ♪((乂(・∀・;)≡(;・∀・)乂))なんでだろ♪


聖霊様がともにおられるということは、イエス様がこの地上に存在していた事以上にインパクトがある。

なぜなら、受肉されたイエス様は、ある意味有限であり、霊として生きておられる聖霊様は、普遍、無限

であるからだ。


もちろんイエス様のなされたことは偉大であって、当時のユダヤ人社会、ローマ人社会を根底から

揺さぶるほどの影響力があったし、まずこの方無しに救いを宣べることは意味がない。第一、聖霊様が

明かされるのは、イエス様のことであるからだ。


それにしても、聖霊様が信じる者一人一人の内に住まわれるとは、イエス様と行動をともにしていた

弟子たちどころか、イエス様が内におられる人々があちこちに存在しているのと同じなのだから、

それはそれは、すごいことである。


◎素朴なギモン


「ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。(ところがこの男は、不正な

ことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが

全部飛び出してしまった。 ~)」 (17,18節)


いったい、どんな死に方をしたのだろう?マタイ27:5を見ると、「外に出て行って首をつった」としか

書かれていないが・・・どっかの岩場のようなところで首を吊ったものの、重すぎて落っこちたのか?

しかしからだが真二つ、はらわたが・・・ って、普通じゃないよね?


◎今年のビジョン、「聖霊を主人として、自分自身で決断する」 を目指す

今年はなかなかタフな年になるようです (^^;;) 母の死もそうですが、いろんなことが起こる予感。

でも、そんな中にも確かに神様がともにいてくださるという安心感をもって生きていきたいですね。


そういえば、ユダに代わる使徒を選ぶとき、くじを使ったようですが、今の時代、くじで神様のみこころを

伺うことしませんよね。これは、聞いた話なんですが、今は聖霊が降られて、一人一人が直接聖霊に

聞いて従うことができるので、やらないという話です。なるほど。


新年早々、母が亡くなりました。


5年半の間、パーキンソン病と類似した難病で、線条体黒質変性症という病気と闘っていましたが、

昨夕6時33分に生涯を閉じました。最後の2年半は病院で入院生活を送っていました。直接的な

死因は肺炎だそうです。66歳という年が若かったかどうかわかりませんが、彼女らしく太く、明るい

生涯だったように思います。


知らせを知った方々から励ましと慰めのメールや声を頂戴しました。やっぱり友はいいですね~。


明日が通夜、明後日葬儀ですので、今少し空いた時間をぼんやり過ごしていますと、確かに一抹の

寂しさ、というか「あぁ、もう病院通いはしなくなるんだな。」というちょっとした惜別の思い?はありますが、

心には平安があり、母と過ごした楽しい思い出のほうがよく心に浮かんできます。


生前、イエス様の話を何度か彼女にしまして、そのときはイエス様を心に受け入れる言葉はなかった

のですが、神様に対しては心を開いていたように思います。彼女のファイナルアンサーが何であった

のか、永遠の行き先がどこであるかは、神のみぞ知るところですが、できることはやったと思います。


そんなわけで、さてさて、波乱万丈な1年の幕開けです。本当に神様がこの地上において加速度的に

早く、力強く働いておられることを体感した正月でありました。


今年はもっともっとたくさんのこと、楽しいことやつらいこと、びっくり仰天するようなことが起こること

でしょう。それでも、私たちの進もうとしている道には、いつもイエス様が先回りしてすでにそこに

おられ、愛をもって導いてくださるでしょう。その流れの中に身を投じて、一つ一つの出来事に振り

回されずに、永遠を見て走り続けられたら、と願います。


これからもどうぞよろしくお願いします。

新年、あけましておめでとうございます!


デボーション記録、昨年は散々な結果になり、申し訳ございません m(;_ _)m


今年どうなるかは分かりませんが、(ヲイ!) 長い目で見ていただけたら ・・・ って

もうとっくにゲストの方いないかもしれません。そうなったら備忘録にでもしようかな?


そういえば、今デボーションの箇所、ヨハネの福音書がもうすぐ終わって、使徒行伝

がせまっています。その辺りから再スタートきれたらなぁ・・・ いいなぁ・・・


  今年1年、皆様のご健康と祝福をお祈りしつつ 


年賀状

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、・・・」

個人的に大好きな箇所である。ひどく不正な裁判官と神様を対比している箇所である。


特に何について祈るべきとは書かれていないが、前章からすると、神の国が表されることか?

たとえ話の中では、正しく治められること、正当な扱いを受けること、である。


神様の「正しいさばき」とは、実際の裁判というよりは、権威者も弱者も安心して生きていける政治、統治

だと思う。もちろん実際の裁判にせよ、政治にせよ、本来そうあるべきである。しかし、特に政治においては

人間の罪の性質が反映された中での統治であるのが現状だと思われる。


そういえば、あまり政治というものに明るくない私であるが、最近はニュースなどに極力触れて知るように

している。この国に変革が起こるとしたら、必ず最終的には国の政治が変わるはずだから。



おっと、閑話休題-


「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」 とイエス様が疑問を投げかけている。


人の子が来るとき、とはイエス様の再臨、言い換えるならみこころが天でなるように、地においても完全な

かたちで成就するときであろう。全てを適切に、愛と正義で天地万物を直接神様が治めてくださるときが、

早くきますように!



イエス様が12弟子とは別の70人の弟子たちを2人ずつ宣教に遣わすシーンである。


 結果は・・・ ご承知の通り、大成功!!  面目丸潰れの12弟子たちであった。


さて、この70人、イエス様側近の12弟子たち(厳密には9人?)とどこが、何が違ったのだろうか?


注目したいのは、9章の初め、12弟子も同じようにイエス様から宣教に遣わされるため、心得を聞いて

出掛けて行き、見事成功していることだ。この出来事から次章の結果はどう推測したらよいのだろうか?


どちらの弟子たちもイエス様から直接言葉があり、遣わされて行ったときは忠実に任務を行ない、成功を

おさめることができた。しかし悪霊追い出しに失敗したときというのは、イエス様がペテロとヨハネとヤコブを

連れて山へ登って行ったときだったので、油断していたというか、思いがけない出来事で、残りの弟子たちはかなり動揺していたのではないだろうか?


イエス様がいるとき、あるいは、イエス様から命じられて出かけたときには、権威が与えられたことを信じて

行使する信仰があったが、イエス様が不在で、かつ何かするように命じられていない状況下で、自主的に

いやし、奇跡を行なおうとする積極性、イエス様がいなくても与えられた権威を用いるという信仰が足りなかったのではないかと思う。


「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(44節)


イエス様のこのことばから、「いいかい、私はこれからずっと君たちと一緒にいるわけではないんだ。

だから、これからは君たちが病人を見つけたらいやし、悪霊に悩まされているひとがいたら追い出して

助けてやるんだよ。」という意図が感じられる。


12弟子たちには・・・ 「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった」 - 伝わらなかった。


(適用)


・神様から語られたことを実行する(大原則)


・神様の心を思い巡らし、自ら積極的に行動する(失敗もあるだろうが)

憐れみといらだちと・・・


イエス様は12弟子たちと多くの時間を過ごし、群衆たちのリクエストにもたくさん応えてきた。

それは天のお父さんの愛と憐れみを人々に告げ知らせるためであっただろう。しかし、それにしても

人々のあまりの盲目さ加減に、さしものイエス様もキレかかったのか、


「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」


とおっしゃるのだ。イエス様にとっては、この地上はよほど住みづらかったのだろう。一見なかなか手厳しい

皮肉のように感じもするのだが、むしろイエス様の苦悩が読み取れる。人々が羊飼いのいない弱りきった

羊のようになっているのをご覧になって、かわいそうに思われる憐れみの心と、なかなか神の思い、計画を

理解できずにとんちんかん(頓珍漢と書くらしい)な弟子たちに嫌気がさす人としてのイエス様の苦悩だ。


「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び・・・」 (ヘブル5:8)


そうなんだ、イエス様も様々な試練、葛藤、苦悩を通して学ばれることがあったのだなぁ。



◎「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

そういえば、この箇所について以前アメリカ人の教師に教えてもらったことがある。ここの鋤と

書かれている言葉は英語の聖書では”plow”になっているそうだが、このplowという単語、

鋤は鋤だが、むしろ牛や馬に引かせて田畑を耕すのに使う、うしぐわ(からすき)の意味らしい。

田畑を耕す人は、牛や馬にまたがってからすきに手をかけると、まっすぐ前を見据えて曲がらない

ようにハンドルを取るのが当たり前なのだそうだ。てっきり木の棒の先に曲がったフォークみたいな

鉄がついた道具のことだと思っていた。だからすきに手をかけて後ろを見ると曲がってしまい、

焦点が定まらないのだ。なるほどね。

(適用)


・人の足りなさを見ても神様に聞いてその人を愛する


・天のお父さんの思い、心を優先して生きる → 示されたことを後回しにせず、実行する