(続き)
さて、ここからが一番覚えていたいことなのだが・・・
今回の母の死という出来事を通して、たくさんのことを感じ、学び、成長できたと思うのだが、そのうちの
2つを記録しておこうと思う。
一つ目は、霊の家族、神の家族の大切さである。
通夜当日とその前夜、どうやら仏教では寝ずの番をして線香を焚く習慣があるらしいのだが、あまり宗教
熱心でない実家では、蚊取り線香のようなぐるぐる巻きの線香に火を付けておくのだが、やはり火の番を
しようということで、交代で夜を過ごすことになった。ロウソクと線香を灯しながら過ごす夜中はさながら
24-7の祈りのようで、聖書を読んだり、祈ったりしながら夜を明かした。
その中で神様が語られた言葉があった。
「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」しかし、イエスは
そう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、兄弟たちとはだれですか。」
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟
たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また
母なのです。」(マタイ12:47-50)
確かに私を産んでくれた母は一人であり、その母は今、永遠の行き先に向かって行った。繰り返すが、
彼女のファイナルアンサーは神のみぞ知るところである。しかし、私には肉親の家族とは別に、霊の家族、
永遠の絆で結ばれている家族がおり、その一人一人が兄弟、姉妹、母なのだ。
天のお父さんと霊の家族がある限り、私は決して孤独になることも、見捨てられることもない。セルという
家族的コミュニティーの中で養われた、安心の土台が私に揺るぎない平安を与えてくれた。それはセルの
仲間たちだけでなく、ICBCの仲間たちや、遠くにいて思ってくれるすべての兄弟、姉妹たちが与えてくれた
平安である。
二つ目は、神の主権の元に生かされているという安心感である。
「私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです」 (使徒17:28)
私は4人兄弟の末っ子である。そして、なぜか上の3人はお店を経営してたり、自分で事業を興している。
また、亡くなった祖父母は半農半商(駄菓子屋)、いとこも商売をしているという商人の系図である。
(ちなみに、私にはその才能はないだろうと思う)
そんなわけで、私の兄弟たちは皆忙しく、母の世話をしたいと思っても、時間をつくることが難しかった。
しかし、私はICBC事務所のスタッフで、比較的柔軟に行動することができた。
話がそれるが、ICBCのよい風土で、今年のビジョンでもあるのだが、ジョシーは常々スタッフの行動、
仕事を管理することはしない。(もっとも管理したいとしてもできないが・・・)いつも言うことは、
「自分で神に聞いてやりなさい」 である。
一応朝9時~5時という時間は決まっているが、その日の優先順位によっては、それぞれが人に会うために
出かけていたり、仕事に出かけていたり、奉仕で留守だったりと様々である。自分と神との関係が第一で
ある。もちろんチームワークを軽んじたりはしない。一人一人が神に相談して決めるからそれほど的外れな
行動はないからだ。そして、自分たちが自主的に決めて行動するので、嫌々動くことはほとんどないし、
楽しい。もちろんその分、責任はあるけどね。与えられた時間、賜物を自分で忠実に管理するって、大人
の領域だよね。
-閑話休題ー
私はクリスチャンであって、仏式の葬儀で焼香をしたり、墓参りをするわけではないので、母の生きている
間にできる限りの愛を表現したいと願っていた。死んでから何をしたって、それは私にとっては、供養という
言葉を使った自己満足にしか思えなかった。母と過ごす瞬間、瞬間が楽しく、貴重な思い出になった。
4人兄弟、みなそれぞれに深い愛情を母に抱いていたとは思う。しかし、生前に過ごした時間、記憶、写真、
思い出、誰よりも多くのものを私は得たと思う。それは願っても叶えられない事情があることを思うとただ
ただ神に感謝である。
しかし、通夜のあった5日、一つの疑問が私の頭をよぎった。 ”自己満足” - 生前してあげられることを
母にして、自分は精一杯やった、やれることはやったと思うことだって、自己満足、永遠の行き先に触れる
ことをごまかすための自己満足なんじゃないか・・・ 自分はやれることはやったと思っていても、本当に
天のお父さんが、母にしてあげたかったことを自分を通してできたんだろうか・・・
そんな疑問を宣教師のユキさんにもぶつけてみた。彼は私のために祈り、ハグしてくれた後、神の主権
の中に僕らは生きているんだと話してくれた。自分が何かできた、できなかった、何かしてあげられた、
してあげられなかった、という次元の話ではなく、すべては神の主権の中で動いていることだから、僕らを
通していつでも神様は最善を行なうことができるんだよ、そんな内容のことを話してくれた。
やっぱり、天のお父さんは大きかった。私が何かできた、できなかったと考えているとき、それはたぶん
神様の主権の中で、という意識がとんでいるのだ。
そう、2005年末、うすうす母の死も心の片隅にあって、2006年が神の流れがますます速くなることを
感じ取っていた私たちに、神様が一番伝えたかったメッセージは、神の主権だったのかもしれない。
神の主権を認めること、すべての道で主を認めることは、自分の意思や決断で認めますとか、認めたく
ありませんと選択することではなく、あらゆることの中に神の意図、計画が含まれており、すでに神が
その場所で働き始めている軌跡、しるし、もっと言うと神の存在、臨在、見えざる神の御手をキャッチする
ことではないかと思う。
幸いにして、私は、「私にとって永遠の行き先を知らない母の死」という現実の中に、神の主権、臨在、介入
(何と表現するのが適切かわからない)をキャッチすることができた。だって、そうじゃなければわざわざ
正月ムード真っ最中に母を取り除く必要はないでしょう?
神がご存知で、そして神が介入しておられる事だと気づけば、どんなにつらいことも、ショックだと思われる
ことも、ポジティブになる。だから自分でも驚くほど、心が平安でいられるのだと思う。しかし、それは私に
何かあったからではなく、成長したからでもなく、多くの人々の祈りと、神の憐れみゆえのボーナスだろう。
2006年、本当に波乱万丈の幕開けで、この崩壊前夜の日本に、神様の働いておられる足跡、軌跡が
いたるところで見られるようになるだろう。そして、ますます神の津波の勢いが、速く、力強く押し寄せ
ようとしているのを感じる。
最後に母の死を総括するならば、神様が私のハドメを外してくださり、「今だよ。今、私が起こしている波に
乗るときだよ。」とそっと背中を押してくださった出来事だと思う。今までの私は、いろんな神の働き、流れ、
ミニストリーを見てきた。そしてよくよく、観察してきた。すばらしい働き、価値のあるミニストリーは多く、
自分にできることがあれば、協力したいと思ってきた。
しかし、100%のエネルギーを傾けて、特定の働きやミニストリーに賭けるということはしてこなかった。
それは、もちろん神様からの強い促しをキャッチしなかったからでもあるが、入院中の母のことが心の中に
あったからである。母に何かあったときには、いつでも自分が行動できるように・・・ そんな気負いがあった
かもしれない。
しかし、神様はそんな私のこともご存知で、ご自身の計画と流れの中で、声をかけ、母というある意味
私にとってハドメとなっていた存在を取り去ることで、「今、来なさい。私の流れの中に身を投じて、私に任せ
なさい。」と召してくださったのではないかと思う。
そして同時に人を愛する、一人の人を時間をかけて愛するという訓練の、第一段階卒業でもあった?
(免許皆伝までは、まだまだ)
さて、神が人を召すとき、それは最高の喜びでもあり、光栄でもあるが、責任がある。それでも、ユキさん
の言葉を借りるなら、「大丈夫だよ。人が何か新しいことをしようと思っても、実はそれは新しいことでは
なく、すでに神様が始めておられることに参加するだけだから」 である。
プー伯爵、人生の転機を迎えるの巻である。
※と偉そうなことを言っても、やはりみなさんのお祈り、支援があって助けられている小心者です。
これからもどうぞ、よろしくお願いします。