大阪美術倶楽部 旧鴻池本宅跡
八木通商株式会社大阪本社(旧大阪農工銀行)
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋2-4-5にあります
大阪美術倶楽部
大阪美術倶楽部とは2010年(平成22年)に創立100周年を迎える
美術工芸品展・呉服衣装展・お茶会・日本舞踊などの催しなど
美術に関して普及促進を目的とする催し物会場かなぁ~
この時は 表千家同門会大阪支部さんの
茶会・展観というのをやっていました
といっても目的はこちらではなく
旧鴻池家本宅跡ですw
鴻池家は、戦国時代の武将山中鹿之介の子孫と伝えられ、
戦国期末に伊丹の鴻池村で酒造業を始めています
江戸時代初めに清酒を造る技法を確立し、
その後の繁栄の基礎を作りました
鴻池家では大阪に支店を出し、一族のうち正成を店主に充てたのですが、
これが後の鴻池善右衛門となり、豪商へと成長していくこととなります
特に3代目善右衛門は鴻池新田を開拓し、
大名貨を中心とする両替業に専門化してついには十人両替となり、
大坂随一の両替商として発展することになります
1863年(文久3年)には、結成から間もない新選組(壬生浪士組)が
200両を鴻池家から借り入れています
1864年(元治元年)には、鴻池家を中心とする大阪の豪商達が、
新選組と会津藩に対して7万1千両にも上る出資を行っています
このように江戸期における代表的な豪商で、
新選組に対しても活動資金として多額の献金を行っていました
攘夷志士たちの御用金押し借りに対する警護が狙いだったようです
その本邸は北浜にあり、「新選組血風録」では、
招待を受けた近藤勇が「虎徹」を譲り受けるというシーンに登場します
次は 新井ビル(旧報徳銀行大阪支店) へ
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋2-4-5にあります
大阪美術倶楽部
大阪美術倶楽部とは2010年(平成22年)に創立100周年を迎える
美術工芸品展・呉服衣装展・お茶会・日本舞踊などの催しなど
美術に関して普及促進を目的とする催し物会場かなぁ~
この時は 表千家同門会大阪支部さんの
茶会・展観というのをやっていました
といっても目的はこちらではなく
旧鴻池家本宅跡ですw
鴻池家は、戦国時代の武将山中鹿之介の子孫と伝えられ、
戦国期末に伊丹の鴻池村で酒造業を始めています
江戸時代初めに清酒を造る技法を確立し、
その後の繁栄の基礎を作りました
鴻池家では大阪に支店を出し、一族のうち正成を店主に充てたのですが、
これが後の鴻池善右衛門となり、豪商へと成長していくこととなります
特に3代目善右衛門は鴻池新田を開拓し、
大名貨を中心とする両替業に専門化してついには十人両替となり、
大坂随一の両替商として発展することになります
1863年(文久3年)には、結成から間もない新選組(壬生浪士組)が
200両を鴻池家から借り入れています
1864年(元治元年)には、鴻池家を中心とする大阪の豪商達が、
新選組と会津藩に対して7万1千両にも上る出資を行っています
このように江戸期における代表的な豪商で、
新選組に対しても活動資金として多額の献金を行っていました
攘夷志士たちの御用金押し借りに対する警護が狙いだったようです
その本邸は北浜にあり、「新選組血風録」では、
招待を受けた近藤勇が「虎徹」を譲り受けるというシーンに登場します
次は 新井ビル(旧報徳銀行大阪支店) へ
八木通商株式会社大阪本社(旧大阪農工銀行)
除痘館跡碑
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋3-2-1にあります
八木通商株式会社大阪本社ビル(旧大阪農工銀行)
本社ビルの建物は、
東京駅の赤レンガ建築や中之島の大阪市中央公会堂で知られる
明治の大建築家、辰野金吾氏によって大正7年に設計されたもの
設計 辰野・片岡建築事務所
施工 清水組
1968 年(昭和43年)、この建物を縁あって八木通商が手に入れ、
今も保存に努めながら使用しているそうです
外観にアラベスク文様を多用したテラコッタタイルを使い、
独特の柔らかなトーンと表情を醸し出しています
現在のファザード意匠は国枝博によるもので
3階部分は後の増築です
次は 大阪美術倶楽部 旧鴻池本宅跡 へ
大阪市中央区今橋3-2-1にあります
八木通商株式会社大阪本社ビル(旧大阪農工銀行)
本社ビルの建物は、
東京駅の赤レンガ建築や中之島の大阪市中央公会堂で知られる
明治の大建築家、辰野金吾氏によって大正7年に設計されたもの
設計 辰野・片岡建築事務所
施工 清水組
1968 年(昭和43年)、この建物を縁あって八木通商が手に入れ、
今も保存に努めながら使用しているそうです
外観にアラベスク文様を多用したテラコッタタイルを使い、
独特の柔らかなトーンと表情を醸し出しています
現在のファザード意匠は国枝博によるもので
3階部分は後の増築です
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除痘館跡碑
大阪市立愛珠幼稚園一般公開
の後に訪れたのは愛珠幼稚園のお向かい
大阪市中央区今橋3-2-17にあります
財団法人洪庵記念会緒方ビル
にあります除痘館跡碑
大阪の除痘館は牛痘種痘を行う場所として
緒方洪庵 が中心になって
嘉永2年(1849年)11月7日に古手町(道修町)に開設した
それは牛痘がはじめて長崎に渡来した年である
大阪での種痘活動はまことにさかんで
安政5年(1858年)4月24日には全国にさきがけて官許を得た
のちに万延元年(1866年)10月にはこの場所
すなわち当時の尼崎町1丁目、
現在の今橋3丁目に移って事業を拡張した
牛痘種痘とはなんぞや?
種痘とは天然痘の予防接種のこと
天然痘の瘡蓋(かさぶた)の粉末を接種する方法を
緒方自身によって改良を加えたものだった
牛と書かれているので
牛からワクチンを作ったんですね~
あっ 案内板に書かれてましたw
明記します
緒方洪庵は ここから一筋北側にある適塾 で
福沢諭吉をはじめとする多くの塾生に蘭学を教える傍ら
この場所に除痘館を設立しました
除痘館では死亡率が2割を超える恐ろしい伝染病であった
天然痘から子供達をまもるため牛痘種痘法
(牛から採ったワクチンを使うもので
1796年英国でジェンナーが始めた方法)
による予防接種活動を行なったのです
これは日本における予防医学の原点ともいえるもので
洪庵亡き後も受け継がれ明治維新以後
公共事業として引き継がれるまで続きました
最初にやったのはエライですね
しかも牛からワクチンって牛になる~って思うよね
前例がないことはなかなか認知しないものだから
相当の苦労があったことだろうと思います
今に続く予防医学
今日の礎ですね
次は 八木通商株式会社大阪本社(旧大阪農工銀行) へ
の後に訪れたのは愛珠幼稚園のお向かい
大阪市中央区今橋3-2-17にあります
財団法人洪庵記念会緒方ビル
にあります除痘館跡碑
大阪の除痘館は牛痘種痘を行う場所として
緒方洪庵 が中心になって
嘉永2年(1849年)11月7日に古手町(道修町)に開設した
それは牛痘がはじめて長崎に渡来した年である
大阪での種痘活動はまことにさかんで
安政5年(1858年)4月24日には全国にさきがけて官許を得た
のちに万延元年(1866年)10月にはこの場所
すなわち当時の尼崎町1丁目、
現在の今橋3丁目に移って事業を拡張した
牛痘種痘とはなんぞや?
種痘とは天然痘の予防接種のこと
天然痘の瘡蓋(かさぶた)の粉末を接種する方法を
緒方自身によって改良を加えたものだった
牛と書かれているので
牛からワクチンを作ったんですね~
あっ 案内板に書かれてましたw
明記します
緒方洪庵は ここから一筋北側にある適塾 で
福沢諭吉をはじめとする多くの塾生に蘭学を教える傍ら
この場所に除痘館を設立しました
除痘館では死亡率が2割を超える恐ろしい伝染病であった
天然痘から子供達をまもるため牛痘種痘法
(牛から採ったワクチンを使うもので
1796年英国でジェンナーが始めた方法)
による予防接種活動を行なったのです
これは日本における予防医学の原点ともいえるもので
洪庵亡き後も受け継がれ明治維新以後
公共事業として引き継がれるまで続きました
最初にやったのはエライですね
しかも牛からワクチンって牛になる~って思うよね
前例がないことはなかなか認知しないものだから
相当の苦労があったことだろうと思います
今に続く予防医学
今日の礎ですね
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重要文化財大阪市立愛珠幼稚園一般公開
懐徳堂旧阯跡の碑
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋3-1-11にあります
大阪市立愛珠幼稚園
ココに来るのは2回目だけど
今回(2009年4月25日)は
重要文化財 大阪市立愛珠幼稚園 一般公開
とあって 雨にもかかわらず人がたくさん来てました
写真は玄関前した撮影できなかったので
これのみですが
視認性高い地上21階建てのタワーオフィスビル
トレードピア淀屋橋 との対比が
今と昔のギャップという意味では良いかなぁ~と気に入っています
時間は30分に1回、10分~15分間、学芸員による建物の解説が始まったところでした
100年以上前に製作された世界的にも希少価値のある
ドイツ製のイルムラー社のピアノ演奏
イルムラーピアノ(グランドピアノ)は第2次世界大戦で工場が消失し
125年の歴史を閉じた相当に希少価値のあるピアノだそうです
ピアノの音色の対比もしていました
音に聞き入った後 愛珠幼稚園を探索
イルムラーピアノを弾いていた遊戯室は
天井を高くした大空間で天井は格天井になっていました
ちなみに天井にはシャンデリアもありましたよ
採光のため壁面の高い位置に窓がありとても明るかったです
寒さ対策の為 床は2重張になってあるそうです
さすがに確認はしませんでしたがw
階段を上がって中2階のギャラリーには
子供時分に遊んだ指人形や積み木などが並べてありました
このギャラリーは大正14年に設置されたそうです
ココで目をひいたのが時を刻み続ける時計
止ることなく愛珠幼稚園の歴史を見守り続けているんですね
中庭の方に出て 昭和6年に設置された螺旋のすべり台を見ました
螺旋型って珍しいですよね
後は茶室があったことに驚いたなぁ~
さすがに畳は日に焼けてさらに軋んでましたけど
幼稚園の頃からこんな日本の伝統的な建物中で生活できるって良いよね
都会の真ん中のレトロな空間
そこだけが明治時代から時が止ったようなそんな感じにさせてくれる幼稚園です
次は 除痘館跡碑 へ
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋3-1-11にあります
大阪市立愛珠幼稚園
ココに来るのは2回目だけど
今回(2009年4月25日)は
重要文化財 大阪市立愛珠幼稚園 一般公開
とあって 雨にもかかわらず人がたくさん来てました
写真は玄関前した撮影できなかったので
これのみですが
視認性高い地上21階建てのタワーオフィスビル
トレードピア淀屋橋 との対比が
今と昔のギャップという意味では良いかなぁ~と気に入っています
時間は30分に1回、10分~15分間、学芸員による建物の解説が始まったところでした
100年以上前に製作された世界的にも希少価値のある
ドイツ製のイルムラー社のピアノ演奏
イルムラーピアノ(グランドピアノ)は第2次世界大戦で工場が消失し
125年の歴史を閉じた相当に希少価値のあるピアノだそうです
ピアノの音色の対比もしていました
音に聞き入った後 愛珠幼稚園を探索
イルムラーピアノを弾いていた遊戯室は
天井を高くした大空間で天井は格天井になっていました
ちなみに天井にはシャンデリアもありましたよ
採光のため壁面の高い位置に窓がありとても明るかったです
寒さ対策の為 床は2重張になってあるそうです
さすがに確認はしませんでしたがw
階段を上がって中2階のギャラリーには
子供時分に遊んだ指人形や積み木などが並べてありました
このギャラリーは大正14年に設置されたそうです
ココで目をひいたのが時を刻み続ける時計
止ることなく愛珠幼稚園の歴史を見守り続けているんですね
中庭の方に出て 昭和6年に設置された螺旋のすべり台を見ました
螺旋型って珍しいですよね
後は茶室があったことに驚いたなぁ~
さすがに畳は日に焼けてさらに軋んでましたけど
幼稚園の頃からこんな日本の伝統的な建物中で生活できるって良いよね
都会の真ん中のレトロな空間
そこだけが明治時代から時が止ったようなそんな感じにさせてくれる幼稚園です
次は 除痘館跡碑 へ
懐徳堂旧阯跡の碑
大阪市指定 名勝 御堂筋 銀杏並木
の後に訪れたのは
大阪市中央区今橋3-5-12にあります
日本生命淀屋橋ビル東側
懐徳堂旧阯跡の碑
武士から庶民までが学んだ学問所
懐徳堂は、享保9年(1724)に儒学者の中井甃庵が、
5人の町人たちと協力して創設した学問所
篤志の大坂商人の協力を得ながら
明治2年廃止されるまで145年にわたり人材を育てた
塾生は武士から庶民までと幅広く、席順も身分に関係なく商人のことも考え、
遅刻・早退も自由であったそうです
中井竹山・履軒・五井蘭洲・持軒らすぐれた指導者が多く、
門下生として富永仲基・山片蟠桃)らを輩出している
また、適塾 とともに大阪大学の前身にもなった私塾でした
現在でも春秋2回、大阪大学の企画で懐徳堂講座を行っている
案内板にはこう書かれてました
この地は徳川時代の学校として名高い懐徳堂の跡である
享保11年の開学から明治2年の閉鎖まで
140年の間 大阪文教の中心であった
大正の初年に先儒の偉業を顕彰して記念会が設立されたので
当社も協賛しこの碑を建てた
撰文は記念会の創設者西村天囚先生
揮毫は懐徳堂第2代の学主たる
中井甃庵先生の玄孫中井天生先生である
次は重要文化財大阪市立愛珠幼稚園一般公開 へ
の後に訪れたのは
大阪市中央区今橋3-5-12にあります
日本生命淀屋橋ビル東側
懐徳堂旧阯跡の碑
武士から庶民までが学んだ学問所
懐徳堂は、享保9年(1724)に儒学者の中井甃庵が、
5人の町人たちと協力して創設した学問所
篤志の大坂商人の協力を得ながら
明治2年廃止されるまで145年にわたり人材を育てた
塾生は武士から庶民までと幅広く、席順も身分に関係なく商人のことも考え、
遅刻・早退も自由であったそうです
中井竹山・履軒・五井蘭洲・持軒らすぐれた指導者が多く、
門下生として富永仲基・山片蟠桃)らを輩出している
また、適塾 とともに大阪大学の前身にもなった私塾でした
現在でも春秋2回、大阪大学の企画で懐徳堂講座を行っている
案内板にはこう書かれてました
この地は徳川時代の学校として名高い懐徳堂の跡である
享保11年の開学から明治2年の閉鎖まで
140年の間 大阪文教の中心であった
大正の初年に先儒の偉業を顕彰して記念会が設立されたので
当社も協賛しこの碑を建てた
撰文は記念会の創設者西村天囚先生
揮毫は懐徳堂第2代の学主たる
中井甃庵先生の玄孫中井天生先生である
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大阪市指定 名勝 御堂筋 銀杏並木
大阪市立愛日小学校記念碑
の次に向かったのが御堂筋
交差点で言うと今橋3の交差点に看板を発見!
大阪市指定 名勝 御堂筋 銀杏並木と書かれています
看板によると
所有者は国
所在地は大阪市中央区北浜3丁目 4丁目~難波3丁目 4丁目間
指定日は平成12年12月12日となっています
看板の説明
大正10年(1921年)から昭和16年(1941年)を施工期間とする
大阪市第1次都市計画事業は 都心部の過密状態を緩和し
高速鉄道と街路網を整備することによって
人口の分散を図り 良好な都市環境を形成しようとするものであった
御堂筋の建設は単に道路を建設すると言うことではなく
近代都市大阪 の顔を創り上げようとするものであった
大正8年(1919年)に計画が決定され
大正15年(1926年)から工事が始まったが財源難の上に恐慌が重なり
用地買収も順調に進まず 困難を極めた
幅員24間(約43.6m) 梅田-難波間を結ぶ約4kmの御堂筋が完成したのは
昭和12年(1937年)であった
歩道・車道・緩行車道・緑地帯が整然と区分され
歩道と緑地帯には銀杏が植えられた
現在でも800本を超える並木が維持され良好な景観を保っている
御堂筋の銀杏並木は近代都市大阪を象徴する歴史景観として貴重である
もう少し難波よりの道修町3丁目交差点~平野町3丁目交差点間で
昨年御堂筋イルミネーション実証実験 があったけど
御堂筋は本当に大阪の顔ですよね
5月10日には御堂筋オープンフェスタ2009もあるし
いつもの道と何処か違う ひと がいきづく御堂筋のキャッチのように
色々な顔のある御堂筋をもっともっと見てみたいです
出来たら 福島あたりまで引張ってきて欲しいなぁ~
京阪電車中之島線やほたるまちも出来たことだし
福島 野田 西九条 島屋あたりまで 御堂筋から
流れると良いなぁ~
次は懐徳堂旧阯跡の碑 へ
交差点で言うと今橋3の交差点に看板を発見!
大阪市指定 名勝 御堂筋 銀杏並木と書かれています
看板によると
所有者は国
所在地は大阪市中央区北浜3丁目 4丁目~難波3丁目 4丁目間
指定日は平成12年12月12日となっています
看板の説明
大正10年(1921年)から昭和16年(1941年)を施工期間とする
大阪市第1次都市計画事業は 都心部の過密状態を緩和し
高速鉄道と街路網を整備することによって
人口の分散を図り 良好な都市環境を形成しようとするものであった
御堂筋の建設は単に道路を建設すると言うことではなく
近代都市大阪 の顔を創り上げようとするものであった
大正8年(1919年)に計画が決定され
大正15年(1926年)から工事が始まったが財源難の上に恐慌が重なり
用地買収も順調に進まず 困難を極めた
幅員24間(約43.6m) 梅田-難波間を結ぶ約4kmの御堂筋が完成したのは
昭和12年(1937年)であった
歩道・車道・緩行車道・緑地帯が整然と区分され
歩道と緑地帯には銀杏が植えられた
現在でも800本を超える並木が維持され良好な景観を保っている
御堂筋の銀杏並木は近代都市大阪を象徴する歴史景観として貴重である
もう少し難波よりの道修町3丁目交差点~平野町3丁目交差点間で
昨年御堂筋イルミネーション実証実験 があったけど
御堂筋は本当に大阪の顔ですよね
5月10日には御堂筋オープンフェスタ2009もあるし
いつもの道と何処か違う ひと がいきづく御堂筋のキャッチのように
色々な顔のある御堂筋をもっともっと見てみたいです
出来たら 福島あたりまで引張ってきて欲しいなぁ~
京阪電車中之島線やほたるまちも出来たことだし
福島 野田 西九条 島屋あたりまで 御堂筋から
流れると良いなぁ~
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大阪市立愛日小学校記念碑
銭高組分室{銭高組高徳寮(小西平兵衛邸)}
の次に訪れたのが
大阪市中央区今橋4-1-1
淀屋橋 Odona にあります
大阪市立愛日小学校記念碑
大阪市中央区(旧東区)北浜4丁目にあった
大阪市立の公立小学校で
1929年に竣工した校舎は、
建築家・横浜勉が設計を担当したそうです
沿革は
山片蟠桃の屋敷跡が学校敷地
1872年8 月、「升屋」八代当主山片重明は小学校設立のため、
大阪北浜にある自らの邸宅を、土地、家屋、建具ごと学校に寄贈した
この中に、山片家旧蔵の書籍類があり、
山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、
蟠桃が仙台藩主や白川藩主松平定信から拝領した貴重書の数々も小学校に寄贈された
昭和時代に入り、1940年代前半の大阪市は
中等学校の入試難を緩和するための方策として中等学校の増設を図った
この際、既存の小学校(国民学校)を近隣校へ統廃合して、
空いた校舎を転用することで中等学校を新設する方法をとった
その一環として、1942年に船場国民学校校舎を転用して
大阪市立船場高等女学校(戦後大阪市立東高等学校に統合されて廃校)を設置した
これにより、船場国民学校は愛日国民学校に統合された
また太平洋戦争終戦直後には、戦災被災により久宝小学校を統合している
1970年代頃から児童数の減少傾向が目立つようになり、
同様に児童数減少が目立っていた大阪市立集英小学校との統合の話が持ち上がった
大阪市教育委員会や両校の学校・地域関係者らが折衝を進め、
1989年9月に大阪市教育委員会から2校の統合が正式発表された
統合で開平小学校 が設置されたことに伴い、
愛日小学校は1990年3月に閉校となった
そしてとなりに記念碑があります
色々書かれていましたが
ちょっと見にくかったのでスルー
卒業生として
前 阪神タイガース監督岡田彰布さんや
社民党所属衆議院議員 辻元清美さんがいらっしゃるそうです
学校が無くなってもその場所にあった事実は変わらないものですね
次は 大阪市指定 名勝 御堂筋 銀杏並木 へ
の次に訪れたのが
大阪市中央区今橋4-1-1
淀屋橋 Odona にあります
大阪市立愛日小学校記念碑
大阪市中央区(旧東区)北浜4丁目にあった
大阪市立の公立小学校で
1929年に竣工した校舎は、
建築家・横浜勉が設計を担当したそうです
沿革は
山片蟠桃の屋敷跡が学校敷地
1872年8 月、「升屋」八代当主山片重明は小学校設立のため、
大阪北浜にある自らの邸宅を、土地、家屋、建具ごと学校に寄贈した
この中に、山片家旧蔵の書籍類があり、
山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、
蟠桃が仙台藩主や白川藩主松平定信から拝領した貴重書の数々も小学校に寄贈された
昭和時代に入り、1940年代前半の大阪市は
中等学校の入試難を緩和するための方策として中等学校の増設を図った
この際、既存の小学校(国民学校)を近隣校へ統廃合して、
空いた校舎を転用することで中等学校を新設する方法をとった
その一環として、1942年に船場国民学校校舎を転用して
大阪市立船場高等女学校(戦後大阪市立東高等学校に統合されて廃校)を設置した
これにより、船場国民学校は愛日国民学校に統合された
また太平洋戦争終戦直後には、戦災被災により久宝小学校を統合している
1970年代頃から児童数の減少傾向が目立つようになり、
同様に児童数減少が目立っていた大阪市立集英小学校との統合の話が持ち上がった
大阪市教育委員会や両校の学校・地域関係者らが折衝を進め、
1989年9月に大阪市教育委員会から2校の統合が正式発表された
統合で開平小学校 が設置されたことに伴い、
愛日小学校は1990年3月に閉校となった
そしてとなりに記念碑があります
色々書かれていましたが
ちょっと見にくかったのでスルー
卒業生として
前 阪神タイガース監督岡田彰布さんや
社民党所属衆議院議員 辻元清美さんがいらっしゃるそうです
学校が無くなってもその場所にあった事実は変わらないものですね
次は 大阪市指定 名勝 御堂筋 銀杏並木 へ
銭高組分室{銭高組高徳寮(小西平兵衛邸)}
和菓子の老舗 (株) 鶴屋八幡 本店
の次に訪れたのは
大阪市中央区伏見町4-2にあります
銭高組分室
正しくは銭高組伏見高徳寮
その前が小西平兵衛邸
明治21年(1888)設計
施工:
大工棟梁-弥兵衛
左官-前兵衛
石工-太郎兵衛
屋根-喜兵衛
手代-茂兵衛
間口13間、奥行き16間、三ッ蔵を備えた表屋造りの巨大な町家
道修町の小西儀助商店(1903)と並び、大阪船場に残る大商家の遺構である
唐物商(輸入品問屋)、小西平兵衛家の邸宅であったものを
1941年大阪の老舗ゼネコン銭高組が買い受けたそうです
大阪市立の博物館、大阪くらしの今昔館では
近世後期の大阪市中の商家建築を再現する際、
小西平兵衛邸を参考資料にしたとの事
資料にするのも頷けます
大戸と大戸内に区切られた潜り戸
夜は防犯のために大戸を閉め、
潜り戸から出入りする
こんな建物 最近なかなか無いよね
良いなぁ~って思う
昔の建物は偉大です
次は 大阪市立愛日小学校記念碑 へ
の次に訪れたのは
大阪市中央区伏見町4-2にあります
銭高組分室
正しくは銭高組伏見高徳寮
その前が小西平兵衛邸
明治21年(1888)設計
施工:
大工棟梁-弥兵衛
左官-前兵衛
石工-太郎兵衛
屋根-喜兵衛
手代-茂兵衛
間口13間、奥行き16間、三ッ蔵を備えた表屋造りの巨大な町家
道修町の小西儀助商店(1903)と並び、大阪船場に残る大商家の遺構である
唐物商(輸入品問屋)、小西平兵衛家の邸宅であったものを
1941年大阪の老舗ゼネコン銭高組が買い受けたそうです
大阪市立の博物館、大阪くらしの今昔館では
近世後期の大阪市中の商家建築を再現する際、
小西平兵衛邸を参考資料にしたとの事
資料にするのも頷けます
大戸と大戸内に区切られた潜り戸
夜は防犯のために大戸を閉め、
潜り戸から出入りする
こんな建物 最近なかなか無いよね
良いなぁ~って思う
昔の建物は偉大です
次は 大阪市立愛日小学校記念碑 へ
和菓子の老舗 (株) 鶴屋八幡 大阪本店
社団法人大阪倶楽部
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋4-4-9
にあります
和菓子の老舗 株式会社 鶴屋八幡 大阪本店
に行ってきました
外観はこんな感じです~
鶴屋八幡の伝統は、約300年前の元禄時代まで遡ります
元禄15年(1702年)創業で、江戸時代の上方で高名であった、
老舗菓子店 虎屋伊織が鶴屋八幡の前身です
正確には、虎屋大和大掾藤原伊織と言い、店の間口は六、七間もあり、
その隆盛ぶりは『東海道中膝栗毛』に登場し、
『摂津名所図会』寛政10年(1798年)には、百花群がる盛況ぶりが描かれており、
旅人が土産を買い求める姿や、
菓子切手(商品券)を商品と交換しようとしている姿が伺えます
その菓子切手こそ、江戸時代に発行された最初の商品券だと言われています
菓子切手は別名、饅頭切手とよばれ信用は絶大で、
大坂内外で贈答用として盛んに用いられました。
店内の感じ~
赤のポイントが聞いてますね~
副交感神経を刺激する色で、
食欲や性欲を刺激する色ですから
自ずと目が行くのかも知れません
品質管理の面でも、高麗橋3丁目の町年寄が、
大坂名物の誇りを失うまいとの配慮から、
時々取り寄せて目方を検査していました
江戸末期の著名な随筆『守貞漫稿』にも
「大坂は高麗橋3丁目 虎屋大和大掾藤原伊織なる者
諸国に名ありて頗る巨店也 饅頭出島さとう製一つ価五文也」
と書かれております
当時の饅頭といえば2、3文が相場でしたが、
長崎出島の白砂糖に泉州日根野の大粒大納言小豆を使い、
1つ5文で『青物詩選』享和3年(1803年)に
「形小にして銭を咬むに似たり」と書かれながらも繁盛したのは、
味と老舗の格がものを言ったのかもしれません
材料へのこだわりが大阪名物へとなっていったのかも知れませんね
店内にあった看板です~
江戸時代の商人番付にも度々登場し、
幕末まで9代に亙り繁盛しましたが、
9代目当主 竹田七郎兵衛が病弱のうえ実子が無く、
そこへ動乱期の世情不安が重なり、
160年続いた老舗も商いが行き詰まりました
創業者 今中伊八困ったのは、大坂のお茶人達でした
当時は饅頭が有名でしたが、お茶席用の上生菓子が主力で商いをしており、
大名や鴻池家等の豪商、お茶人など顧客それぞれのお好みも心得ておりました
そこで幼少の頃より縁あって奉公し、
主人より厚い信頼を得ていた今中伊八が、
お茶人や贔屓筋と9代目当主から
「これよりは、我家製法を後の世に守り伝えよ」との有難い仰せと、
主家に原料を収めていた八幡屋辰邨さんからの
「商売の見通しが立つ迄、心置きなく材料を使ってよいから」
との願ってもない後押しもあり、伝統の火を消すまいと、
職人達と共に製法、技術を踏襲し、
文久3年(1863年)に同じ高麗橋に心機一転、鶴屋八幡として暖簾を掲げました
伝統は継承されていくものですね
強い想いがそうさせるのかも知れません
こしあん入りもなか 百楽
抹茶焼皮を使ったこし餡入の最中です
ちょっと小腹が空いたので食べ歩きしました
今中家は、代々大坂で刀屋を営んでおりましたが、
その昔、家の庭に鶴が巣を作った瑞祥と、
恩人である八幡屋辰邨さんのご恩を忘れまいと
「鶴屋八幡“つるややはた”」と命名し、
今では“つるやはちまん”と呼び慣らされています
資料は鶴屋八幡さんのHPより拝借しました
http://www.turuyahatiman.co.jp/

次は銭高組分室{銭高組高徳寮(小西平兵衛邸)} へ
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋4-4-9
にあります
和菓子の老舗 株式会社 鶴屋八幡 大阪本店
に行ってきました
外観はこんな感じです~
鶴屋八幡の伝統は、約300年前の元禄時代まで遡ります
元禄15年(1702年)創業で、江戸時代の上方で高名であった、
老舗菓子店 虎屋伊織が鶴屋八幡の前身です
正確には、虎屋大和大掾藤原伊織と言い、店の間口は六、七間もあり、
その隆盛ぶりは『東海道中膝栗毛』に登場し、
『摂津名所図会』寛政10年(1798年)には、百花群がる盛況ぶりが描かれており、
旅人が土産を買い求める姿や、
菓子切手(商品券)を商品と交換しようとしている姿が伺えます
その菓子切手こそ、江戸時代に発行された最初の商品券だと言われています
菓子切手は別名、饅頭切手とよばれ信用は絶大で、
大坂内外で贈答用として盛んに用いられました。
店内の感じ~
赤のポイントが聞いてますね~
副交感神経を刺激する色で、
食欲や性欲を刺激する色ですから
自ずと目が行くのかも知れません
品質管理の面でも、高麗橋3丁目の町年寄が、
大坂名物の誇りを失うまいとの配慮から、
時々取り寄せて目方を検査していました
江戸末期の著名な随筆『守貞漫稿』にも
「大坂は高麗橋3丁目 虎屋大和大掾藤原伊織なる者
諸国に名ありて頗る巨店也 饅頭出島さとう製一つ価五文也」
と書かれております
当時の饅頭といえば2、3文が相場でしたが、
長崎出島の白砂糖に泉州日根野の大粒大納言小豆を使い、
1つ5文で『青物詩選』享和3年(1803年)に
「形小にして銭を咬むに似たり」と書かれながらも繁盛したのは、
味と老舗の格がものを言ったのかもしれません
材料へのこだわりが大阪名物へとなっていったのかも知れませんね
店内にあった看板です~
江戸時代の商人番付にも度々登場し、
幕末まで9代に亙り繁盛しましたが、
9代目当主 竹田七郎兵衛が病弱のうえ実子が無く、
そこへ動乱期の世情不安が重なり、
160年続いた老舗も商いが行き詰まりました
創業者 今中伊八困ったのは、大坂のお茶人達でした
当時は饅頭が有名でしたが、お茶席用の上生菓子が主力で商いをしており、
大名や鴻池家等の豪商、お茶人など顧客それぞれのお好みも心得ておりました
そこで幼少の頃より縁あって奉公し、
主人より厚い信頼を得ていた今中伊八が、
お茶人や贔屓筋と9代目当主から
「これよりは、我家製法を後の世に守り伝えよ」との有難い仰せと、
主家に原料を収めていた八幡屋辰邨さんからの
「商売の見通しが立つ迄、心置きなく材料を使ってよいから」
との願ってもない後押しもあり、伝統の火を消すまいと、
職人達と共に製法、技術を踏襲し、
文久3年(1863年)に同じ高麗橋に心機一転、鶴屋八幡として暖簾を掲げました
伝統は継承されていくものですね
強い想いがそうさせるのかも知れません
こしあん入りもなか 百楽
抹茶焼皮を使ったこし餡入の最中です
ちょっと小腹が空いたので食べ歩きしました
今中家は、代々大坂で刀屋を営んでおりましたが、
その昔、家の庭に鶴が巣を作った瑞祥と、
恩人である八幡屋辰邨さんのご恩を忘れまいと
「鶴屋八幡“つるややはた”」と命名し、
今では“つるやはちまん”と呼び慣らされています
資料は鶴屋八幡さんのHPより拝借しました
http://www.turuyahatiman.co.jp/
次は銭高組分室{銭高組高徳寮(小西平兵衛邸)} へ
社団法人大阪倶楽部
アンティカ・オステリア・ダル・ポンピエーレ(旧中央消防署今橋出張所)
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋4-4-11にあります
社団法人大阪倶楽部
1997年5月に文化庁指定 国の登録有形文化財 第27-0015号
に登録されたようです
とても立派な建物ですよね
入ったことは無いけど
入ってみたいなぁ~
設計― 安井武雄
竣工― 1924年
施工― 大林組
規模― 地上4階、地下1階
延床面積― 3,442m²+塔屋61m²
以下 ウィキペディアより
1924年の竣工の近代ビル建築
竣工以来社交倶楽部である
社団法人大阪倶楽部の会員制会館として利用され続けている
1914年に創建された英国城館風の大阪倶楽部旧館は
同倶楽部の主唱者であった住友家を代表して
総理事鈴木馬左也がその評議員でもあったので、
当時の住友本社営繕課建築係が設計を引き受け、
野口孫市と長谷部鋭吉がこれにあたって大正3年に竣工した
大正11年に失火のために焼失し、大正13年に現在の建物が再建された
現会館は東京日本橋の野村證券ビルや
大阪ガスビルディングを手がけた安井武雄設計による新館である
新館竣工記念冊子で安井が
「南欧風ノ様式ニ東洋風ノ手法ヲ加味セルモノ」と説明しているとおり、
旧ローマ市街の建築によくみられる石のアーチが目を引く
南欧スタイルを取り入れた重厚な外観に仕上げられており、
唐草の縁取りやトーテムポールなど細部の彫刻には東洋・中近東のモチーフを見て取れる
綿業会館、大阪ガスビルディングとともに、大阪の近代三大名建築に数えられている
また、世界的に評価されている日本の古楽器演奏団体、
コレギウム・ムジクム・テレマンによるバロック音楽のコンサートや
KCM Concert Series at Osaka Clubが毎月開かれるなど、
関西における主要な室内楽専用のコンサートホールの一つともなっている
構成として
屋上― ゴルフ練習場
4階― ホール
3階― 1号室、2号室、3号室、別室、和室
2階― 常食堂(「花外楼」直営)、談話室、図書室
1階― ロビー(喫茶・酒場)、受付・玄関、囲碁・将棋室、撞球場
地下― 理髪室
となっているそうです
次は 和菓子の老舗 (株) 鶴屋八幡 本店 へ
の次に訪れたのは
大阪市中央区今橋4-4-11にあります
社団法人大阪倶楽部
1997年5月に文化庁指定 国の登録有形文化財 第27-0015号
に登録されたようです
とても立派な建物ですよね
入ったことは無いけど
入ってみたいなぁ~
設計― 安井武雄
竣工― 1924年
施工― 大林組
規模― 地上4階、地下1階
延床面積― 3,442m²+塔屋61m²
以下 ウィキペディアより
1924年の竣工の近代ビル建築
竣工以来社交倶楽部である
社団法人大阪倶楽部の会員制会館として利用され続けている
1914年に創建された英国城館風の大阪倶楽部旧館は
同倶楽部の主唱者であった住友家を代表して
総理事鈴木馬左也がその評議員でもあったので、
当時の住友本社営繕課建築係が設計を引き受け、
野口孫市と長谷部鋭吉がこれにあたって大正3年に竣工した
大正11年に失火のために焼失し、大正13年に現在の建物が再建された
現会館は東京日本橋の野村證券ビルや
大阪ガスビルディングを手がけた安井武雄設計による新館である
新館竣工記念冊子で安井が
「南欧風ノ様式ニ東洋風ノ手法ヲ加味セルモノ」と説明しているとおり、
旧ローマ市街の建築によくみられる石のアーチが目を引く
南欧スタイルを取り入れた重厚な外観に仕上げられており、
唐草の縁取りやトーテムポールなど細部の彫刻には東洋・中近東のモチーフを見て取れる
綿業会館、大阪ガスビルディングとともに、大阪の近代三大名建築に数えられている
また、世界的に評価されている日本の古楽器演奏団体、
コレギウム・ムジクム・テレマンによるバロック音楽のコンサートや
KCM Concert Series at Osaka Clubが毎月開かれるなど、
関西における主要な室内楽専用のコンサートホールの一つともなっている
構成として
屋上― ゴルフ練習場
4階― ホール
3階― 1号室、2号室、3号室、別室、和室
2階― 常食堂(「花外楼」直営)、談話室、図書室
1階― ロビー(喫茶・酒場)、受付・玄関、囲碁・将棋室、撞球場
地下― 理髪室
となっているそうです
次は 和菓子の老舗 (株) 鶴屋八幡 本店 へ