朝日神明社(逆櫓社)
大阪市此花区春日出中1-6-21
にあります
朝日神明社
に行ってきました
ココは春日出に行くときにいつもと違う道を通ってみよう!
と思って見つけた神社
通称 逆櫓社
当朝日神明社 は、古く大阪市中央区神崎町に在り、
浪速三神明(朝日・日中 ・夕日 )の1つとして有名であった「朝日神明宮」と、
此花区川岸町に在った「皇太神社」を合祀したものである
朝日神明宮(一名逆櫓社)は、享保年間(1716~1710年)、
左近衛将監源 政冬の書いた縁起書によれば、
朱雀天皇の天慶年間(938~947年)に平貞盛の創建するところとある
さらに起源を調べれば、平 将門が下総国で乱を起こし、
常陸国の大掾 平國香を攻め亡ぼした(承平・天慶の乱)
これがため國香の長男で都に在った平 貞盛が父の仇を報ぜんと
時の摂政 藤原忠平に乞い、朝敵追討の勅命を受け、関東に下向せんとした
貞盛京師を発つに当り浪速の地に天照皇大神を奉斎し戦勝を祈願した
幸いにして、将門を討ち平げ右の次第を帝に奏上したところ、
帝も叡感の余り時の摂津国の国造を奉幣使とし、
東方日の出づる処の朝敵を一時に静め給へる御神徳を称えられ
「朝日宮」という神号を賜ったという
奉祀以来、朝敵追討の節は何時にても奉幣使を立てられ、
敵徒降伏の祈願をこめられたという
また公卿縉神の祈願するものも多く、多田満仲などは、信仰崇敬の志厚く、
氏族裔孫に至りて報国の大志を遂げ、天下に美名を輝し、
忠孝両全の者を生ずべきことを祈願して、四時怠りなく祭典を執行したという
(熊野御幸記に記せる坂口王子祠も当社ならんという)
その後年月を経て、文治元年(1185年)に源 義経が平家追討のため西国下向の際、
当社に寄って戦勝を祈願し、祈願状を奉納しており、
その時に家来の武蔵坊弁慶が当社で馬草を借り借用状を残している
その後に、義経が梶原 景時と史上有名な「逆櫓の論 」で争っているが、
義経は神明宮に祈願をこめているのて、戦勝疑いなしと敢えてこの論争を行ったものという
これが一名逆櫓社といわれる由縁である
また、豊臣秀吉が大阪築城に当たり、多くの社寺は遷座を命ぜられたが、
当社はまさに勅願の故もあってそのまま旧地に鎮座せられた
のみならず大閤秀吉の崇敬厚く、年々米百俵を寄進せられていた
元和元年(1615年)、大阪夏の陣に際し、真田 幸村が当社に金色の采配を奉納し出陣したと伝られる
徳川時代に下っても大阪城代は例年参社の上、神饌を供しており、
当時境内は、方八町も有していたという
一方皇太神社は、古くより川岸町にあった
この川岸町は、南新田といわれ一面芦原であったが、
この新田の支配を大阪代官所より命ぜられていた佐竹甚兵衛が開拓し
今日の基礎をつくった
この佐竹氏は、生来敬神の念厚く、天保六年(1835年)、
伊勢の御分霊を乞い受け神祠を造って、新田の鎮守の社として奉斎していた
これが皇太神社である
明治維新後、両社とも社運傾き維持困難の故をもって、合併・合祠を命ぜられ、
その去就を問われていた
当時、南区にあった富豪豊田宇左衛門がこれを聞き、
氏は川岸町一円の大地主であった関係上、両社を合祠して
明治40年「朝日神明社」と社号を改めた
同時に春日出町字東原の上、春日神社
西区阿波座下通3丁目、安喜良神社(天満宮)をも合祀した
合祀の春日神社は、元禄十二年(1699年)、雑賀屋七兵衛の勧請である
また安喜良神社は、河内国道明寺村の道明寺に安置ありし
菅原道具公自作の荒木の尊像を明治維新の神仏分離に際し
土師神社神勤松寿院住職より阿波座の有志が譲り受けて奉斎したものである
境内地は342坪あり、本殿の外に絵馬堂等を有し、
末社に伊能知奴志神社、事平神社、稲荷神社があったという
しかし、川岸町一帯は、世の進むにつれ工場地として発展したため、
此辺一帯は煤煙に包まれ、社頭の尊厳さえも維持し難い有様となった
そこで豊田氏より境内地の寄進を受け昭和6年現在地に遷宮した
総坪数は約700坪あり、本殿を始め幣殿、拝殿、神楽殿、絵馬殿等を有し、
末社に春日神社、安喜良神社、事平神社、伊能知奴志神社、稲荷神社を奉斎していた
しかしながら、第二次大戦中昭和20年6月1日の大阪大空襲によって、
当社境内はもちろん春日出町一帯は焼野原となったが、
総代、氏子、崇敬者諸氏の尽力によって、昭和24年5月、本殿を復興、
さらに昭和40年7月中門、拝殿を復興し現在に至っている
次は朝日神明社 初日稲荷神社 へ
にあります
朝日神明社
に行ってきました
ココは春日出に行くときにいつもと違う道を通ってみよう!
と思って見つけた神社
通称 逆櫓社
当朝日神明社 は、古く大阪市中央区神崎町に在り、
浪速三神明(朝日・日中 ・夕日 )の1つとして有名であった「朝日神明宮」と、
此花区川岸町に在った「皇太神社」を合祀したものである
朝日神明宮(一名逆櫓社)は、享保年間(1716~1710年)、
左近衛将監源 政冬の書いた縁起書によれば、
朱雀天皇の天慶年間(938~947年)に平貞盛の創建するところとある
さらに起源を調べれば、平 将門が下総国で乱を起こし、
常陸国の大掾 平國香を攻め亡ぼした(承平・天慶の乱)
これがため國香の長男で都に在った平 貞盛が父の仇を報ぜんと
時の摂政 藤原忠平に乞い、朝敵追討の勅命を受け、関東に下向せんとした
貞盛京師を発つに当り浪速の地に天照皇大神を奉斎し戦勝を祈願した
幸いにして、将門を討ち平げ右の次第を帝に奏上したところ、
帝も叡感の余り時の摂津国の国造を奉幣使とし、
東方日の出づる処の朝敵を一時に静め給へる御神徳を称えられ
「朝日宮」という神号を賜ったという
奉祀以来、朝敵追討の節は何時にても奉幣使を立てられ、
敵徒降伏の祈願をこめられたという
また公卿縉神の祈願するものも多く、多田満仲などは、信仰崇敬の志厚く、
氏族裔孫に至りて報国の大志を遂げ、天下に美名を輝し、
忠孝両全の者を生ずべきことを祈願して、四時怠りなく祭典を執行したという
(熊野御幸記に記せる坂口王子祠も当社ならんという)
その後年月を経て、文治元年(1185年)に源 義経が平家追討のため西国下向の際、
当社に寄って戦勝を祈願し、祈願状を奉納しており、
その時に家来の武蔵坊弁慶が当社で馬草を借り借用状を残している
その後に、義経が梶原 景時と史上有名な「逆櫓の論 」で争っているが、
義経は神明宮に祈願をこめているのて、戦勝疑いなしと敢えてこの論争を行ったものという
これが一名逆櫓社といわれる由縁である
また、豊臣秀吉が大阪築城に当たり、多くの社寺は遷座を命ぜられたが、
当社はまさに勅願の故もあってそのまま旧地に鎮座せられた
のみならず大閤秀吉の崇敬厚く、年々米百俵を寄進せられていた
元和元年(1615年)、大阪夏の陣に際し、真田 幸村が当社に金色の采配を奉納し出陣したと伝られる
徳川時代に下っても大阪城代は例年参社の上、神饌を供しており、
当時境内は、方八町も有していたという
一方皇太神社は、古くより川岸町にあった
この川岸町は、南新田といわれ一面芦原であったが、
この新田の支配を大阪代官所より命ぜられていた佐竹甚兵衛が開拓し
今日の基礎をつくった
この佐竹氏は、生来敬神の念厚く、天保六年(1835年)、
伊勢の御分霊を乞い受け神祠を造って、新田の鎮守の社として奉斎していた
これが皇太神社である
明治維新後、両社とも社運傾き維持困難の故をもって、合併・合祠を命ぜられ、
その去就を問われていた
当時、南区にあった富豪豊田宇左衛門がこれを聞き、
氏は川岸町一円の大地主であった関係上、両社を合祠して
明治40年「朝日神明社」と社号を改めた
同時に春日出町字東原の上、春日神社
西区阿波座下通3丁目、安喜良神社(天満宮)をも合祀した
合祀の春日神社は、元禄十二年(1699年)、雑賀屋七兵衛の勧請である
また安喜良神社は、河内国道明寺村の道明寺に安置ありし
菅原道具公自作の荒木の尊像を明治維新の神仏分離に際し
土師神社神勤松寿院住職より阿波座の有志が譲り受けて奉斎したものである
境内地は342坪あり、本殿の外に絵馬堂等を有し、
末社に伊能知奴志神社、事平神社、稲荷神社があったという
しかし、川岸町一帯は、世の進むにつれ工場地として発展したため、
此辺一帯は煤煙に包まれ、社頭の尊厳さえも維持し難い有様となった
そこで豊田氏より境内地の寄進を受け昭和6年現在地に遷宮した
総坪数は約700坪あり、本殿を始め幣殿、拝殿、神楽殿、絵馬殿等を有し、
末社に春日神社、安喜良神社、事平神社、伊能知奴志神社、稲荷神社を奉斎していた
しかしながら、第二次大戦中昭和20年6月1日の大阪大空襲によって、
当社境内はもちろん春日出町一帯は焼野原となったが、
総代、氏子、崇敬者諸氏の尽力によって、昭和24年5月、本殿を復興、
さらに昭和40年7月中門、拝殿を復興し現在に至っている
次は朝日神明社 初日稲荷神社 へ
新鮮漁港-鮨処- 明石 福島店
長州藩蔵屋敷跡碑
の次に訪れたのは
大阪市福島区福島2-3-2
北川ビル1Fにあります
新鮮漁港-鮨処- 明石 福島店
に行ってきました
前にも来たことがあるような気もしますが
まぁ 福島なので何回紹介しても良いかなぁw
店内はこんな感じ
迷ったら皿盛を頼んでしまいます
赤だし付はお特ですね
これは タケノコの天ぷら
鯖寿司だったかなぁ~
こんな感じで頂きました
気さくな店員さんばかりで結構好きなところです

別ブログはこちら↓
明石というネームバリュー
の次に訪れたのは
大阪市福島区福島2-3-2
北川ビル1Fにあります
新鮮漁港-鮨処- 明石 福島店
に行ってきました
前にも来たことがあるような気もしますが
まぁ 福島なので何回紹介しても良いかなぁw
店内はこんな感じ
迷ったら皿盛を頼んでしまいます
赤だし付はお特ですね
これは タケノコの天ぷら
鯖寿司だったかなぁ~
こんな感じで頂きました
気さくな店員さんばかりで結構好きなところです
別ブログはこちら↓
明石というネームバリュー
新鮮漁港明石 福島店 (寿司 / 新福島駅 、中之島駅 、福島駅 )
長州藩蔵屋敷碑
永代橋と門樋橋の碑
の次に訪れたのは
土佐堀通と土佐堀1の交差点
大阪市西区江戸堀1-25-22
新江戸堀ビルの対面にあります
長州藩蔵屋敷碑

暗くてあまり読めてませんが
文久3年、8月18日の政変のあと、
長州へ落ち延びる途中の三条実美ら7名の
尊皇攘夷派公卿達が
ここに立ち寄ったことがあるそうですよ
次は
新鮮漁港-鮨処- 明石 福島店へ
の次に訪れたのは
土佐堀通と土佐堀1の交差点
大阪市西区江戸堀1-25-22
新江戸堀ビルの対面にあります
長州藩蔵屋敷碑

暗くてあまり読めてませんが
文久3年、8月18日の政変のあと、
長州へ落ち延びる途中の三条実美ら7名の
尊皇攘夷派公卿達が
ここに立ち寄ったことがあるそうですよ
次は
新鮮漁港-鮨処- 明石 福島店へ
永代橋と門樋橋の碑
黒岩静枝ライブコンサート 共に生きる喜びを歌う
の次に訪れたのは
大阪市西区靱本町1-20-13にある
大阪市内唯一のプジョー正規販売店
peugeot中大阪の前にある永代橋と門樋橋の碑
ココに書かれていたことはこちら
両橋は寛永元年(1624年)靱の干塩魚商人が、
荷役に便利なように開削した海部堀川に架かっていた
海部堀川は阿波堀川 の太郎助橋上流から北へ分流し、
約100m程のところから西折、
京町堀川の最下流部に合流する延長約550m、
幅員約18から20mの堀川であった
上流部の南北区間は特に永代堀、その岸は永代浜とよばれた
永代浜には当時たいせつな肥料であった干鰯の荷揚場や市場を設けたので、おおいに賑わった
明和4年(1767年)永代堀は埋立てられたが、
まもなく幅約3間(約6m)の堀川として復活し、その最上流部に門樋橋、
その下流に永代橋が架かっていた
門樋橋は初め通常の橋ではなく門樋(水門)であり、橋名はこの名残からきている
大正2年の市電の敷設にともない幅員22.4m、橋長 4.4mの橋に架け替えられた
永代橋は海部堀川の開削当時からあり
永代浜に通じる橋として架橋された歴史のある橋であった
昭和26年海部堀川の埋立てにより両橋とも姿を消した
次は 長州藩蔵屋敷碑 へ
の次に訪れたのは
大阪市西区靱本町1-20-13にある
大阪市内唯一のプジョー正規販売店
peugeot中大阪の前にある永代橋と門樋橋の碑
ココに書かれていたことはこちら
両橋は寛永元年(1624年)靱の干塩魚商人が、
荷役に便利なように開削した海部堀川に架かっていた
海部堀川は阿波堀川 の太郎助橋上流から北へ分流し、
約100m程のところから西折、
京町堀川の最下流部に合流する延長約550m、
幅員約18から20mの堀川であった
上流部の南北区間は特に永代堀、その岸は永代浜とよばれた
永代浜には当時たいせつな肥料であった干鰯の荷揚場や市場を設けたので、おおいに賑わった
明和4年(1767年)永代堀は埋立てられたが、
まもなく幅約3間(約6m)の堀川として復活し、その最上流部に門樋橋、
その下流に永代橋が架かっていた
門樋橋は初め通常の橋ではなく門樋(水門)であり、橋名はこの名残からきている
大正2年の市電の敷設にともない幅員22.4m、橋長 4.4mの橋に架け替えられた
永代橋は海部堀川の開削当時からあり
永代浜に通じる橋として架橋された歴史のある橋であった
昭和26年海部堀川の埋立てにより両橋とも姿を消した
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黒岩静枝ライブコンサート 共に生きる喜びを歌う
大阪大学微生物病研究所創設之地碑
の次に訪れたのは
大阪市西区南堀江1-22-13にあります
大阪府民共済本部ビル
ウェルネスプラザ 健康度測定以来なので
ついこの間振りです
5月15日 18時30分から 10階にあります レインボーホールで
大阪府民共催コンサート
黒岩静枝ライブコンサート 共に生きる喜びを歌うを聞いてきました
レジメに書かれていた
黒岩 静枝さんのプロフィールには
魂を揺さぶるダイナミックなジャズボーカルは
60年代のベトナム米軍キャンプで培われ
生死を賭して戦場に赴く兵士達の胸に深く響いた
ニューヨークに渡り 数々のステージ経験を重ねたのちに
リリースされたCDはSJ誌ジャズディスク大賞にノミネートされた
いま女性ジャズボーカルの第一人者として
神戸ジャズボーカルクイーンコンテストの審査員も務める
黒岩静枝はもっとも息のあったサポートミュージシャンとともに
展開する これぞ 大人のジャズライブ!!
と言うことで 着いたのは ぎりぎり すこしトークが始まっていた頃でした
プログラムは
☆A Change is gonna came
この時はオバマ大統領のお話をされていたと思います
NO1ではなく Only Oneであるように進んで下さい みたいなことをお話しされていました
☆Lover Man
愛している人はいますか?
経験をしない人より経験をした人と云う分幸せよね みたいな事をお話しされていました
☆But Not For Me
人の痛みは自分の痛み
人の喜びは自分の喜び というようなお話をされていました
☆Over the Rainbow
虹の彼方に
1939年のミュージカル映画『オズの魔法使い』で使用された劇中歌だそうです
すごく明るい曲でした
☆Listen to the music I Believe in music
ここに SUZIE ZOO SPECHAL という女性コーラスグループが参加されました
安達 尚美さん 渡部 真名さん ルミコ 南さん シンディ清水さん ロコ 滝川さんの5名です
コーラスが入ると違いますね
音楽の力 みたいなお話をされていました
☆This Little Light of mine
灯を絶やさず諦めず進んでいこうね みたいなお話をされていました
☆Misty
ここはボサノバで歌われていたかなぁ
☆手紙 15歳の君へ
これは歌詞カードが入っていて
夢を諦めないで というメッセージを投げかけられていました
ここに SUZIE ZOO いう女性コーラスグループが参加されました
安達 尚美さん 渡部 真名さん です
☆People
人は独りでは生きていけない
一人でも良いから頼れる人 みたいなお話をされていました
☆風に吹かれて
ココはどんなのだったかなぁ~
忘れてしまいました
☆アンコール Imagine です
子供さんの映像がスクリーンに出て
笑顔って本当に幸せだなぁ~って痛感させられました
下は サポートミュージシャンの3名
佐々木慶一さん Drums
鈴木由一さん Bass
山下秦司さん Piano
お3方のみの演奏もあってとても楽しめました
全体的に年配の方が多かったですが
音楽って本当にすごいよね
札幌からいらっしゃっているのにも驚きましたが
レジメに書かれてあった
人は自分の中にどれだけ多くの人を住まわせることが出来るのだろう
人の苦しみは自分の苦しみ
人の喜びは自分の喜び
互いに助けあい 幸せを分かち合いながら
諦めないで希望と夢に立ち向かう勇気をもてば
人は人のために生きていることに目覚める と
少し分かったような気がします
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の次に訪れたのは
大阪市西区南堀江1-22-13にあります
大阪府民共済本部ビル
ウェルネスプラザ 健康度測定以来なので
ついこの間振りです
5月15日 18時30分から 10階にあります レインボーホールで
大阪府民共催コンサート
黒岩静枝ライブコンサート 共に生きる喜びを歌うを聞いてきました
レジメに書かれていた
黒岩 静枝さんのプロフィールには
魂を揺さぶるダイナミックなジャズボーカルは
60年代のベトナム米軍キャンプで培われ
生死を賭して戦場に赴く兵士達の胸に深く響いた
ニューヨークに渡り 数々のステージ経験を重ねたのちに
リリースされたCDはSJ誌ジャズディスク大賞にノミネートされた
いま女性ジャズボーカルの第一人者として
神戸ジャズボーカルクイーンコンテストの審査員も務める
黒岩静枝はもっとも息のあったサポートミュージシャンとともに
展開する これぞ 大人のジャズライブ!!
と言うことで 着いたのは ぎりぎり すこしトークが始まっていた頃でした
プログラムは
☆A Change is gonna came
この時はオバマ大統領のお話をされていたと思います
NO1ではなく Only Oneであるように進んで下さい みたいなことをお話しされていました
☆Lover Man
愛している人はいますか?
経験をしない人より経験をした人と云う分幸せよね みたいな事をお話しされていました
☆But Not For Me
人の痛みは自分の痛み
人の喜びは自分の喜び というようなお話をされていました
☆Over the Rainbow
虹の彼方に
1939年のミュージカル映画『オズの魔法使い』で使用された劇中歌だそうです
すごく明るい曲でした
☆Listen to the music I Believe in music
ここに SUZIE ZOO SPECHAL という女性コーラスグループが参加されました
安達 尚美さん 渡部 真名さん ルミコ 南さん シンディ清水さん ロコ 滝川さんの5名です
コーラスが入ると違いますね
音楽の力 みたいなお話をされていました
☆This Little Light of mine
灯を絶やさず諦めず進んでいこうね みたいなお話をされていました
☆Misty
ここはボサノバで歌われていたかなぁ
☆手紙 15歳の君へ
これは歌詞カードが入っていて
夢を諦めないで というメッセージを投げかけられていました
ここに SUZIE ZOO いう女性コーラスグループが参加されました
安達 尚美さん 渡部 真名さん です
☆People
人は独りでは生きていけない
一人でも良いから頼れる人 みたいなお話をされていました
☆風に吹かれて
ココはどんなのだったかなぁ~
忘れてしまいました
☆アンコール Imagine です
子供さんの映像がスクリーンに出て
笑顔って本当に幸せだなぁ~って痛感させられました
下は サポートミュージシャンの3名
佐々木慶一さん Drums
鈴木由一さん Bass
山下秦司さん Piano
お3方のみの演奏もあってとても楽しめました
全体的に年配の方が多かったですが
音楽って本当にすごいよね
札幌からいらっしゃっているのにも驚きましたが
レジメに書かれてあった
人は自分の中にどれだけ多くの人を住まわせることが出来るのだろう
人の苦しみは自分の苦しみ
人の喜びは自分の喜び
互いに助けあい 幸せを分かち合いながら
諦めないで希望と夢に立ち向かう勇気をもてば
人は人のために生きていることに目覚める と
少し分かったような気がします
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大阪大学微生物病研究所創設之地碑
佐野敏郎像とオートバックス出入橋店
の次に訪れたのは
大阪市北区堂島3-1-21にあるNTTデータ堂島ビル
竣工 1974年12月(昭和49年12月)
地上25階・塔屋1階・地下5階
高さ 110m(最高部高さ120m) の建物です
そこにあります大阪大学微生物病研究所創設之地碑
こちらに書かれていたことは
微生物病に関する総合的研認機関を大阪に設立するため
昭和6年山口家範四代玄洞氏は私財を寄附し
これよりさき竹尾家第十一代治右衛門氏の寄附により
設立された竹尾結核研究所
篤志家の寄附による特殊皮膚病研究所を併せ
昭和9年大阪帝国大学に微生物病研究所が創設された
微生物病の予防と治療に貢献する事業を遂行する
財団法人阪大微生物病研究会も山口玄洞しの寄附により同時に発足した
また昭和10年財界の寄附および関修生氏のラジウム購入資金の寄附により
財団法人大阪癌治療研究会が設立された
昭和42年研究所ならびにこれらの財団法人は
千里丘陵に移転したが寄附者の篤志を研究所創設のこの地に誌し
永く後世に伝える
普段何気なく通っているところなので 見つけたときにびっくりしました
このあたりで創設することは多かったのかなぁ
次は黒岩静枝ライブコンサート 共に生きる喜びを歌う へ
の次に訪れたのは
大阪市北区堂島3-1-21にあるNTTデータ堂島ビル
竣工 1974年12月(昭和49年12月)
地上25階・塔屋1階・地下5階
高さ 110m(最高部高さ120m) の建物です
そこにあります大阪大学微生物病研究所創設之地碑
こちらに書かれていたことは
微生物病に関する総合的研認機関を大阪に設立するため
昭和6年山口家範四代玄洞氏は私財を寄附し
これよりさき竹尾家第十一代治右衛門氏の寄附により
設立された竹尾結核研究所
篤志家の寄附による特殊皮膚病研究所を併せ
昭和9年大阪帝国大学に微生物病研究所が創設された
微生物病の予防と治療に貢献する事業を遂行する
財団法人阪大微生物病研究会も山口玄洞しの寄附により同時に発足した
また昭和10年財界の寄附および関修生氏のラジウム購入資金の寄附により
財団法人大阪癌治療研究会が設立された
昭和42年研究所ならびにこれらの財団法人は
千里丘陵に移転したが寄附者の篤志を研究所創設のこの地に誌し
永く後世に伝える
普段何気なく通っているところなので 見つけたときにびっくりしました
このあたりで創設することは多かったのかなぁ
次は黒岩静枝ライブコンサート 共に生きる喜びを歌う へ
佐野敏郎像とオートバックス出入橋店
大阪市北区堂島3-4-2にある
オートバックス出入橋店
国道2号線は良く通ります
出入橋きんつば屋さんの横に
佐野敏郎と書かれた像があります
誰かなぁと思っていたら
この地に日本で初めてのカー用品総合専門店という業態を生み出し
フランチャイズシステムで全国に拡大
そして関西経営者の心に火をつけ
結果 カー用品業界の発展に力を尽くした男であり
また オートバックスグループの創始者である
もうお亡くなりになっているみたいですが
その心を忘れないために 造られたのかなぁ~
創業者は誰も偉大ですね
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オートバックス出入橋店
国道2号線は良く通ります
出入橋きんつば屋さんの横に
佐野敏郎と書かれた像があります
誰かなぁと思っていたら
この地に日本で初めてのカー用品総合専門店という業態を生み出し
フランチャイズシステムで全国に拡大
そして関西経営者の心に火をつけ
結果 カー用品業界の発展に力を尽くした男であり
また オートバックスグループの創始者である
もうお亡くなりになっているみたいですが
その心を忘れないために 造られたのかなぁ~
創業者は誰も偉大ですね
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