大村益次郎先生寓地址碑 | E-smile まっつんの日常

大村益次郎先生寓地址碑

宮武外骨ゆかりの地碑 の次に訪れたのは
大阪市西区江戸堀2-6-33 
江戸堀フコク生命ビルの片隅にあります
大村益次郎先生寓地址碑

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大村益次郎さんとは・・・

大村益次郎は、幕末の軍政家
文政7年(1824年)周防(山口県)秋穂村の医師藤村孝益と
その師村田良安の娘との間に生まれ、祖母の家(村田家)をついだ
幼名を惣太郎
大坂修業時代は良庵、宇和島藩勤務時代は蔵六と名のり、
のち大村益次郎と改名した

日本の近代的軍制をたてた人であるが、弘化3 年(1846年)23歳のとき、
大坂に出て緒方洪庵の適塾 に入門し、塾長時代に江戸堀に居住した

これ以来大阪と関係が深く、軍事上における大阪の重要性に注目し、
明治2年(1869年)兵部大輔に任ぜられると、
すぐに鎮台建設地、兵学校敷地などを検分して、
天保山で海軍根拠地の位置を選定したことは有名である

明治2年9月4日京都で国民皆兵反対派の刺客に襲われ、
大阪病院に入院して右脚を切断したが、手術は成功せず、46歳で没した
大村益次郎先生寓地址の碑は、
昭和18年6月大村卿遺徳顕彰会によって建てられたものである


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ココに書かれていたことは
大村益次郎は儒学 蘭学 医学 西洋兵学に通じ
幕末から明治維新にかけて日本の近代化に非凡な才能を発揮した

嘉永2年(1849年)からこの地の倉敷屋作衛門の座敷に住みながら
緒方洪庵の適塾 で医学を学び
後の明治新政府の兵部大輔(兵部省次官)となり近代国家の制定に貢献した

とあります

すごい勉強家だったのですね
1つのことを知るには色々なところに精通しておかなければならないのかなぁ

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