皆さん。お疲れ様です。

バリュークリエーション取締役の渋ナイトです。


お城マニアは、ご存知だと思いますが。。

犬山城は、日本の中でも、かなり好きな人多いかもです。


■武家の城 犬山城



バリュークリエーション取締役のブログ-犬山城


犬山城は木曽川南岸標高約40メートルの崖の上にそびえ、

天守は全国の現存するもののなかで最も古いとされています。


地形的にみると、丘陵と周囲の平地をあわせた「平山城」ですが、

天守の背後の木曽川が自然の要害となっているのが見て取れます。

犬山城は天文初め頃、織田与次郎信康によって創建されたとされて

いますが、以後、とくに木曽川を押さえる、軍事上・経済上・交通上の

重要な拠点として重きをなしてきました。

3重4階(及び地下2階:石垣中)南面に付櫓がつく

1階:上段の間・武者隠しの間・納戸の間

城主の居間とされ、床が高く畳が敷き詰められ、床・違い棚が
設けられた書院造りの間です。
これは、江戸時代(文化年間)の改造と考えられています。
その北は、万一を警護する武士の詰所となっており、東は、
納戸の間が配されています。

それらをとりまいて武者走りの板の間があります。


2階:武具の間
中央が武具の間で、西北東の三方に武具棚が備えられています。


3階:破風の間
唐破風は、元和~貞享の七十余年の間に、成瀬氏により増築された
といわれます。

南北に唐破風、東西に千鳥羽破風が設けられています。


4階:高欄の間
回廊は、成瀬氏による増築とされ、高欄と廻縁がまわる望楼となっています。

■成瀬家の先祖は・・・

さかのぼると藤原鎌足の子孫である関白二条良基といわれます。
良基が、諸国流浪中に今の足助の里に一時住み、子を設けました。
この子が後に成瀬郷に住みつき、その里の名をとって成瀬と名乗った
といわれます。


■犬山城の城主となった初代の成瀬正成とは・・・

永禄10年(1567)、三河に成瀬正一の嫡男として生まれました。
幼名を小吉といい、幼年時代から徳川家康に小姓として仕え、
天正12年(1584)小牧長久手の戦いで初陣。その後功績をあげ、
家康に信任された側近の一人となりました。


慶長15年(1610)、家康の命により家康の九男である義直の補佐役を

仰せつけられました。

慶長17年(1612)に犬山城主平岩親吉が逝去してから不在となっていた
犬山城を元和3年(1617)に将軍徳川秀忠より成瀬氏が拝領。寛永2年
(1625)1月17日に病没。


■犬山城と成瀬氏

徳川家康9男義直が尾張藩主となり、義直の尾張入りに際してもりやく
(傅役)の成瀬正成が3万5000石で犬山城主となって以後、成瀬氏は、
2代正虎(寛永2-万治2)・3代正親(万治2-元禄16)・4代正幸
(元禄16-享保17)・5代正泰(享保17-明和5)・6代正典
(明和5-文化6)・7代正寿(文化6-天保9)・8代正住(天保9-安政4)
・9代正肥(安政4-明治2)と犬山城主を世襲するとともに、代々尾張藩の

筆頭家老を勤めました。

なお、近代以降は、明治2年(1869)版籍奉還に際しては、9代正肥が
犬山藩知事に任ぜられ、犬山「藩」が公的に成立しましたが、その後の
明治4年には廃藩置県により廃城が決定し、成瀬氏の犬山城主に終止符が
うたれました。

しかし、明治24年(1891)濃尾大震災により天守と西面北端の付櫓や城門
一部が倒壊すると、その修理に際して城は再び旧犬山藩主正肥に譲与され、
以降10代正雄(明治36―昭和24)、11代正勝(昭和24-48)、12代正俊
(昭和48-)と、2004年3月まで成瀬家が代々犬山城を所有してきました。

いくつか城を見てきた中で、納得の城です。


残りも、頑張ろう。



バリュークリエーション株式会社

取締役 渋ナイト