ハジマリの歌は「ワンゴール | いきものがかり」。
昨夜の全仏オープン。錦織圭選手が準々決勝で敗れてしまった。ジョーウィルフリード・ツォンガ相手に【1―6、4―6、6―4、6―3、3―6】とフルセットの末に。
なんでも野次が凄かったらしい。圭選手がサーブを打つ際の。相手は地元選手といえども、テニスファンの一人としては何とも寂しいね。そういうアンフェアさは。
そういえば。この試合の一戦前に勝利した後、彼は会見場でこう答えたらしい。
記者から「四大大会でのベスト8(の感想)は?」と問われ、「この大会では初めてだけど、慣れてきた。驚かなくなってきた。」と。
ふむ。本人だけではなく、観ているこちらサイドもそうではないだろうか。ベスト8ぐらい彼なら普通だと。
個人的には「やったぞ!圭!グランドスラム初制覇!」という文字が紙面を踊ったとしても、それほどのサプライズ感はないな。たぶん。
とはいえ、勝つことが容易いと言っているのではなく、イチローなら3割打って当たり前でしょ的な。
ようするに、慣れ、驚かない、とは、ある時点から評価がシンクロすると思うのだ。他者と双方向に、という感じで。
慣れ原理主義
ビジネスシーンでも同じようなことがある。いつの間にか慣れてたな的な。
というのは、クライアント先のプロモーション、販促全般に携わらさせていただく中、違和感からスタートする取り組みが往々にしてあるのだ。
その異質さに包まれる源は「ウチの業界っぽくない」(同業他社と圧倒的に違う)、「前例がない」という不安感や羞恥心のようなものだったりもするのだが、分かるような気がするのだよね。他者の視線とは時には脅威になり得るわけで。
社内的には「大丈夫か?」というような不穏気味な視線が届いたり、なにやらdisられたり。
お客さんや生活者からは「アレ?」という類の声を受けることもあったりして。
でも、続けるうちに、徐々に、そして、いつの間にか慣れている。驚かなくなっている。楽しんでもいらっしゃる。お互いに。
この現象を「慣れ原理主義」と個人的には呼んでいるのだが、ようするに、やり続ければスタンダード、当たり前になるのだ。(その領域に達するまでは様々な苦難があったりもするけれど。それこそ野次レベルを含めて)
冒頭の錦織圭選手。
何となくレベルの話だが昨夏の全米オープン以降ではないだろうか。(決勝の舞台で惜しくもチリッチに敗戦)
ツアー大会でもベスト8ぐらいは普通というか。いや、ベスト4や決勝進出でも個人的にはそうだし、マスメディア的にも当たり前感はあるよね。
さ、6月。
続けていれば、いつかはスタンダードになる。ふむ。ボクも色々な意味で頑張るよ。全速力で。










