知らんけどな。という後付けの言葉は実に優れている、の巻。 | No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

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企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

「知らんけどな」。
何かを言い終えた後、この言葉を付け加える関西の人は多い。

そして、謙虚な言葉だよな。と、思ったりもする。
(なら言うなよ。と、笑ってしまう時もあるのだが)

とはいえ、正確なニュアンスまでは正に知らんけどな。その辺りは未だに分からずで。

誰かや何かをdisる。という光景は日々のように巷に広がっている。
しかし、よくよく眺めてみれば、その本質に対するものではないdisりもあったりする。

常識や考え、思想的に違うだけでは、的な。見ている現実が違うだけでは、的な。単にその人が嫌いなだけでは、的な。

ネットの中でもありがちだよね。
読解力が足らないだけでは?理解した上でそう言っている?という具合に。

ようするに、真意や真実、そういう現実、それを知らぬままの、不完全であり視野狭窄的なdisりである。(ソースが曖昧なものも含めて)

「知らんけどな」。
とてつもなく謙虚ではないか。

直訳すれば「ちゃんとは知らないけれど」と、自らの不完全さ、曖昧さを認めているわけで。

disる時でさえも、そこまで全否定していないというか。どこか余白を残す優しさがあっていい感じ。
ふむ。愛しさも覚える一言である。




そういえば、今日の午後。
グランヴィア大阪で打ち合わせがあったのだけれど、じわりと来る光景を見かけたっけ。

お隣の席の男性2人組が、(これからやって来る)打ち合わせの相手をさんざんdisっているのだ。
「普通はこうだろう。それはおかしい」などと斜に構えた感じで。

そして、いざその相手(4人組)が訪れてみれば、投合されているではないか。流暢に会話が流れていくではないか。「おぉ。なるほどぉ。そうなのですかぁ。」と。

普通という感覚。常識。世界が単に違っていただけなのだろう。
知らんけどな。