パタンジャリによるラージャヨーガが静的なヨーガの体系とすれば、ハタヨーガは動的なヨーガの体系であり、また、ラージャヨーガが「心のヨーガ」「原想のヨーガありする」だとすれば、ハタヨーガは「身体のヨーガ」であるなどと語られていたりする。
ヨーガおよびサンスクリット語講師の伊藤武氏が、「上記のようなハタ・ヨーガ=フィジカル。ラージャ・ヨガ=スピリチャル。というヨーガの分類に疑問を持ってインドにフィールドワークと文献調査に向かったら、外国人がよくヨーガ修行の留学をするアシュラムにおいては、ハタ・ヨーガは行われていないということに気づかれた。
たとえ、そこでヨーガの体操や呼吸法を学ぶことがあっても、あくまでも「ヨーガ・スートラ」のアシュタンガ(八階梯)の中でなされるアーサナやプラーナーヤーマであって、それはあくまでもラージャ・ヨーガの一部なのであるとのことです。
カースト最上位のバラモン階級では、ヨーガの王様であるラージャ・ヨーガが専らで、彼らヨーガ教師たちはハタ・ヨーガを「学ぶには値しない下賤なヨーガ」として一切見向きもしないそうである。
背景には、旧来の伝統的インド思想の研究者が関心をおよぼすのが、「ヨーガスートラ」に基づくヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)と、その背後にある哲理までであるため、ヨーガについては、「ヨーガスートラ』とヨーガ学派のところで解説が終わってしまうということだ。
一方、ハタ・ヨーガは、ゴーラクナーティ(ナータ派)と呼ばれるサードウ(行者)集団に固有のヨーガであることがわかって、彼ら(非バラモン出身者が多い)のいる道場を訪ねることにした。
すると彼らはバラモンたちとは違い心が広くて、「ヨーガ・スートラ」にいう「ヨーガとは心の作用の静止」というヨーガの定義も受け入れてはいるのだが、ヨーガにおいてはラージャ・ヨーガなどは「頭でっかちのイカサマヨーガ」だと言ってバカにしていたりするそうなのだ(こりゃ、どっちもどっちだな~)。
さて、そもそもハタ・ヨーガとラージャ・ヨーガとでは根っことなっている思想が全く異なるということである。
インドにあっては、大雑把に言ってこの世界をどう理解するかというのが哲学だが、その桎梏から逃れる(解脱する)ための手段がヨーガであるということから、世界の観点が異なればヨーガも異なっても当たり前ということになる。
哲学的に言えば、ヨーガにはもともと一元論的なところがあった。ヨーガによって自己を深めることにより、最後は純粋に知的なものとの出会いを果たすことができる。唯一のものからの世界の展開とそれへの帰一を強調する「ウパニシャッド聖典群」に、「ヨーガ」がはじめて明瞭な姿を見せはじめるのも偶然ではない。
パタンジャリの「ヨーガスートラ』になって、精神原理と物質原理を峻別して世界を説明するサーンキヤ的二元論の枠組みを採り入れて体系化が図られた。
後期ヨーガ(ポストクラシカル・ヨーガ)になると、ヨーガは再び一元論的傾向を濃厚に帯びる。
ラージャ・ヨーガはブラフマンのみを実在とし、その他この世の一切は仮想であると見做すヴェーダンタ哲学のヨーガとなる。「ヨーガ・スートラ」はサーンキヤ哲学にもとづいているが、ヴェーダーンタは独自の思想であるかのように語っており、現世の価値は卑小され、身体は輪廻の世界の不浄なものとして扱われている。
一方、ハタ・ヨーガであるが、「身体を大宇宙と相似関係にある小宇宙」とみなすタントラ(密教)のヨーガであり、身体こそが解脱の手がかりであるとしている。チャクラやクンダリニーというのはタントラ思想に基づいている。
そもそもハタ・ヨーガという言葉自体、初出は仏教文献からで、チャクラも同様と考えれている。
そして、ハタ・ヨーガは、仏教タントラ、いわゆる後期密教で育まれたものであり、日本の空海密教の瑜伽(ヨーガ)の後継者であるとしても過言ではないのです。
仏教にて伝えられたハタ・ヨーガを集大成したのが、12世紀初頭に現れたゴーラクシャという人物で、彼はヒンズー教徒でありながら仏教徒でもあったのだ。
しかし、「ヨーガ・スートラ」の解説書は数多くあるが、当時のハタ・ヨーガがどのようなヨーガであるかなどその類いはほとんど知られていないという。
というのもインド哲学の概説書では、後期ヨーガとしてのハタヨーガやその歴史的背景がまったく無視されていることも多く、「身体のヨーガ」としてのハタヨーガが、思想研究から疎外されてきたと言っても過言ではないからだろう。
ちなみに、ハタ・ヨーガの根本文献である「ゴーラクシャ百頌(シャタカ)」の訳書は一冊も出版されていないという。
さて、「ヨーガ・スートラ」がつくられた頃、ハタ・ヨーガも、いわゆるラージャ・ヨーガも、システムとしては完成していなかった。それでも、あらゆるヨーガの基本となる原理を説いているのは、「パタンジャリの書」であることに間違いはない。
↑スワミ・ヴィヴェカーナンダ
1893年にスワーミ・ヴィヴェカーナンダ(1863~1902年)が、”ラージャ’という言葉を使って欧米人に説話した。
彼の著書「ラージャ・ヨーガ」によれば「ラージャ・ヨーガとは、ヴェーダーンタ哲学の理念のもとに『ヴァガバッド・ギーター』の3つのヨーガ(ジャニーナ・パクティ・カルマのヨーガ)にハタ・ヨーガを加えたものであるとし、アラン・ワッツという人が「インテリタイプのジャニーナ・ヨーガ(思考の道)、フィーリングタイプのためのパクティ・ヨーガ(愛の道)、ワーカーのためのカルマ・ヨーガ(奉仕の道)があるなどと印象のみで馬鹿げた分類をしていた。
しかし、ここに例外的な贈り物として前3者を包括する第4のラージャ・ヨーガ(王の道)があるとして、それが開発するパワーは偉大なものであるゆえに私利のために用いぬことを信じることができる者のみに伝えられるのである。」としてヴィヴェカーナンダの解く内容と相違はなかろう。
↑スワミ・シヴァーナンダ
スワーミ・シヴァーナンダ(1887~1963)はラージャ・ヨーガについて「精妙で高度に哲学的で合理的な手段を提出して心を制御し、すべての感覚を閉ざす瞑想を求道者に求める。機械的で神秘的なハタ・ヨーガと異なり、求道者の心と知性にアピールする『ヨーガ・スートラ』のアシュタンガ(八階梯)のテクニックに基づくものである。
ラージャ・ヨーガは、哲学や方法論においてもクンダリニーについては言及してないが、心を滅し、個々の霊をプルシャの独存に導き、生死と現象の全てを超越することを目標に定めている。
ハタ(クンダリニー・ヨーガ)でも解脱に到達することはできるのだが、すべてのサンスカーラとヴァーサナーを焼き払った最終的な解脱:『ヨーガ・スートラ』にいう無種子三昧は、ラージャによるしかない」と語った。
上記の二人ともアタマはスワーミ、シッポはアーナンダで、ムガール帝国のアクバル帝が支援したサンニャーシー教団のグルに固有の名前である。今日、インドでヨーガを教えるヨーガの師はほとんどがサンニャーシ系だという。
一方、それに敵対したハタ・ヨーガのナータ派ヨーギーの聖者たちは⭕️⭕️ナータの名を冠し、彼らはヴェーダーンタではなくタントラの徒である。
ハタヨーガは、肉体だけで事足れりとするのでは決してなく、その実践を通して心と体のバランスを追求する体系なのである。
アーサナ(姿勢)、ブラーナーヤーマ( 息法)、ムドラー(秘儀的な集中技法や象徴的体位)、クリヤー(行為・技法)、バンダ(締めつけ)などの身体的操作により、エネルギーのチャンネルを開放し、それをもとに精神的エネルギーを解放・発露させる。
ハタヨーガの修練を積めば、強さと柔らかさという肉体的な効用だけでなく、集中力などの精神的パワーを養うことができる。
なお、伝統的なハタヨーガは、ヤマやニヤマなどの倫理規範・行動規準の遵守からはじめて、アーサナやプラーナーヤーマをマスターして瞑想に入り解脱を得るという、ヨーガ行の全プロセスに組み込まれた体系であり、深い瞑想の条件となる清浄で強健な心身作りだすのが本来のハタヨーガなのであるということだそうだ。
ハタヨーガの道がヴェーダーンタの教えと密接な結びつきを示しているが、ハタヨーガ関連文献に現れる一元論思想についての研究はなかなか進んでいないのが現状であり、かつ
ハタヨーガが「身体のヨーガ」である故、オーソドックスなインド哲学の研究対象になることは概して少なくインドでは見向きもされないことはわかった。
翻って「タントリズム」と呼ばれる秘教的なヒンドゥー教の理解にとって、ハタヨーガ文献の研究が進展し、現代ヨーガの実践により多くのヒントや裏づけを与えることができることからハタヨーガを含む後期ヨーガの知識は不可欠であるとも考えられる。
ただ、いま世間の他国の人々の間で主に練習に励んでいるヨーガは、その多くはハタヨーガ系のものなのである。
ここにも、古典文献によってヨーガを研究している人々と、ヨーガのエクササイズに汗を流している人々との間の大きな乖離がある。
現代人の多くは、ヨーガを肉体的・非精神的なエクササイズとして実践しているわけで、ホリスティックなヨーガの一部分を切り取った一種功利的なかたちで実修しているのに過ぎないのであるのは残念なことである(欧米主体の商業主義的ヨーガでは土台無理なお話ではあるが)。
しかし私ごとであるが、我がフィットネスジムにおけるヨガの師は、現代版であるアシュタンガ(ヴィンヤサ)ヨガを収めたそうだが、ピョンピョンと跳ね回るだけで得るものが無かったので、結局現代版ハタヨガに転向したんだと語っていた。
ちなみに、古代の「ヨーガ・スートラ」のアシュタンガ(八階梯)でのテクニックといっても座法・アーサナや呼吸法・プーラヤーマナには見るべきものがなく、結局のところ現代ではハタヨガに頼らざるを得ないと言うことなのだろう。

