ヨーガ行者とは
「ヨーガの哲学(立川武蔵著)」の著者が、ジュニャーナーシュヴァラという名のヨーガ行者に魅入られたお話を、同著冒頭で明かされている。この行者は数奇な運命を遂げる訳だが、特に21歳にして即身成仏(入定)した彼の生き様は数多の行者の中でも壮絶なものだろう。
著者が、ジュニャーナーシュヴァラが入定したインドのアーランディーの寺を訪ねた折、彼の1926年の入定を象徴するように積み重ねられた石板が、「サマーディー(三昧)」と呼ばれているのを聞かされたそうだ。
さて、ヨーガの行法というのは醒めたもので、ヨーガ行者は三味に入っていても自己をうしなわないという。
だが、ヨーガにはつねに自己透徹性があり、三味の状態に入るまえと入ってからの状態には、「同一の自分である」という意識が連続して存在するというのである。 この自己連続性こそ、個人的宗教実践としてのヨーガの本質であると著者は言う。
自己をたもちながら、ヨーガは自己を統御する。「ヨーガ・スートラ』とか初期仏教の「人定」というようなヨーガの初期的形態では、心の作用は統御というよりはむしろ完璧な止滅へとむかわせられる傾向が強かったはずである。
ヨーガ行者はひたすら「寂滅(ニヴリッティ)への道」を進み、「俗なるもの(人為)」 の否定のかなたに「聖なるもの」の顕現を待つというより、その待つ心すらおこしてはならないとする。ほんのささいな「うぬぼれ」もなく、「はからい」もなく、行者は眼前にひろがる「静寂の海」のなかへと飛び込むのである。
われわれ一般人は日常、多くの刺激のなかにいる。音楽や騒音を聞き、映像や活字を見て、道具にふれ、食物を味わっている。われわれの感官や神経は、ほとんど休むことを知らないという状況である。
ところで、これらの刺激から人間を一定期間、隔離すればどうなるのであろうか。最近の心理学ではそのような実験がおこなわれているようだ。
心理学者辻敬一郎氏(名古屋大学名誉教授)によれば、「刺激を削減していくにつれて、大脳皮質の活性化が弱まり、意識水準が低下する。単調感が全身をおそい、情緒不安、思考の混乱・退行がくりかえされる。意欲は減退し、暗示にかかりやすくなり、知覚錯誤、さらには幻覚体験をするようになる。脳波は徐波化し、つまり、波がゆるやかになり、アルファ波の周期の延長が見られる。もちろんこれらの変化は一過性だ」とのことである。
たとえば、いま私(著者)が防音された暗黒の部屋にラジオも何もなく、わずかに命を長らえるのみの食物だけを入れてもらって、一週間いたとしよう。いまのべた心理実験の一般的観察の証例を一つふやすだけであろう。
しかし、ヨーガ行者は決してそうはならない。
彼の脳にはアルファ波が出てくるかもしれないが、一週間、あるいは一ヵ月でも彼はすみきった光のなかにしずかに息づくのである。
ヨーガのもつ力によって、ヨーガ行者には思考の混乱や退行などの兆しさえ見せず、外部からの刺激などではなく、彼の生身の身体そのものの中から統覚の自立性を完成させるのである。
ヨーガ行者が行う「瞑想」では、実際の身体(これを粗大な体というそうです)で行うのでははなくて、想像上の身体(微細身という)を自らで観想して扱うことになるのだそうだ。
「ヨーガの哲学 (立川武蔵著)」によれば、
ハタ・ヨーガはすでに8~9世紀頃には形成されつつあったが、13世紀に超能力者といわれたゴーラクシャ・ナート(ナートとはサンスクリット語で導師を意味する)が完成させたといわれている。
彼が大成したと伝えられるハタ・ヨーガの行法を説明した著作の後、発展したものが残されている。
それは、「ゴーラクシャ・シャタカ」からかなりときをへた16世紀(あるいは17世紀)に、スヴァートマーラーマが「ハタ・ヨーガ・ ブラディービカー」をあらわし、ハタ・ヨーガを体系的に以下のように説明した。
構成の不明瞭な「ヨーガ・スートラ』とは異なり、『ハタ・ヨーガ・ブラディーピカー」(以下「ブラディーピカー」と略する)の内容構成は整然としている。
< ハタ・ヨーガの行法>
一章:体位法(アーサナ)
二章:調息法(ブラーナーヤーマ)
三章:ムドラー(印相)
四章 :サマーディ
という4章にわかりやすく分かれており、特に実際の訓練法に力点が置かれている。
背景的説明の中で特筆すべきは、「ブラディーピカー」の冒頭で「シヴァ神」に関する崇敬が触れられており、作者がシヴァ派に属することと、これ以後シヴァ派の教団やヴェーダーンタ哲学と密に繋がることになる。
さらに、ハタ・ヨーガがラージャ・ヨーガの前段(前説のようなもの)だとして「ラージャ・ヨーガがなければ、どんなに美しい大地(=アーサナ)も夜(=クンバカ)、印相(ムドラー)も輝かない」と述べて、なぜかパタンジャリの「ヨーガ・スートラ」にひれ伏しているかのようなのだ。
いよいよここで「微細な身体」について触れることになります。
脊柱の基部のエネルギーセンターには蛇の姿の女神が眠っているといわれており、ヨーガの行法によって刺激をあたえるとその女神は、逆三角形の頂点から上方にむかって動き出すのだそうだ。ハタ・ヨーガの根本は、この女神を上に引きあげることにあるので、そうすれば、「気」もまた上方にのぼり、ブラフマンの光のなかに溶け入るのである。
体位(アーサナ)は、古典ヨーガ同様、ハタ・ヨーガにおいても行法の初期的な段階にすぎません。
さまざまな体位を習得したのち、ヨーガ行者は調息法とムドラー(印相)によっで「気」を支配しなければならない。
これら二つの行法は複雑で、これを理解するためには、ハタ・ヨーガの体系が考え出したいくつかのしかけを知らなくてはなりません。
「ブラディービカー」では、体位法の説明をおえると、ハタ・ヨーガの実質的行法である調息法およびムドラー(印相)の説明に入ります。
しかし、これらの行法の説明を理解するためには、ハタ・ヨーガに特有なさまざまな「シンボリズム(抽象的な精神的概念を具体的な「象徴(シンボル)」を用いて表現する技法)を知らなければならないのです。
というのはハタ・ヨーガの行法が、そのシンボリズムの機構をはたらかせて「気の上昇」をうながし、その結果、ブラフマン(シヴァと同一視されている)との合一という、精神的至福を求めるシステムであるからなのです。
<身体のシンボリズム>
ハタ・ヨーガ体系におけるしかけの核心となるのは、「微細な身体」とよばれる想像上の身体となります。
ハタ・ヨーガのシンボリズムは、ヨーガ行者にとっての直接的対象である身体のシンボリズムと、宇宙のシンボリズムの二つからなりたっています。
中でも「身体のメカニズム」は途方もなく複雑で、古典ヨーガの行者と同様、心の作用の統御をおこなおうとするハタ・ヨーガの行者は、この複雑きわまりない身体のメカニズムを、「一つのモデル」によって理解しようとしました。
ハタ・ヨーガにおいては、現実の身体は「粗大な身体」とよび、身体を理解するために考えた身体モデルを「微細な身体」とよんだ。
ヨーガのさまざまな操作は現実の身体にはたらき、その結果もこの生身の身体におこるのであるが、ヨーガ行者がおこなうべきそれぞれの行法は「微細な身体」の地図の上で指示されている。
つまり、「身体」に、ヨーガにおけるエネルギーの運行図が描かれており、ヨ ―ガ行者は、「微細な身体」にしめされたチャートにしたがって航行をつづけるのである。
「微細な身体」は目に見えず、実際に触れたりすることもできないが、ひろさあるいは大きさをもっている。
つまり、われわれの身体と同じ形、同じ大きさをもつものではあるが、目には見えないし、さわることもできないものである。
「地、水、火、風、空という五大元素」によってこの世界が構成されているというのは、インド古来の一般的理解である。
ハタ・ヨーガにおいては、身体は五つの元素に対応する部分からなりたつものとしている。
足から膝にいたるまでの部分は「地の要素」に対応し、膝から肛門までの部分は「水の要素」、その上から心臓までの部分は「火の要素」、その上から眉間までの部分は「風の要素」、その上から頭頂までの部分は「空(エーテル)の要素」にそれぞれ対応している。
地、水、火、風、空という順序は、それぞれの元素の「重さ」の順になっており、地がもっとも重く、その上に存する水は地より軽い。もっとも上にはもっとも「軽い」空が存在する。このようにして下にいくほど重いものを配して、安定した感じをあたえるような配置になっている。
ヨーガ行者の身体モデルは、やはり坐ったかたちで考えられる。
ヨーガによって身体のエネルギーが巡行する宇宙は、坐法あるいは体位法にしたがって坐った身体だからである。
地、水、火、 風、空の五大元素でできた身体モデルは、身体の中央を走る脈(ナーディー)とその節目節目に存在するエネルギー・センター(チャクラ)、およびそこを流れる気(ブラーナ)とのシステムに移しかえられる。
<エネルギーセンター(チャクラ)とは>
「微細な身体」の中の中脈(スシュムナー)上に、尾骶骨、生殖器、臍、心臓、喉、眉間の位置に六つのチャクラがある。チャクラはスシュムナーの円盤形に絡まった叢と考えられ、この円盤は生命エネルギーが集結した「エネルギーセンター」なのだが、細い脈が絡まってスシュムナーの中をうまく「気」が通らないので、ハタ・ヨーガではチャクラの叢の中にうまく気を通すことを目指すのである。
<気(プラーナ)とは>
「微細な身体」の脈とチャクラのなかをエネルギーが流れる。このエネルギーは「ブラーナ」とよばれる。「ブラーナ」とは呼吸を意味するが、呼息と生命とは古来近い関係にあると考えられていた。「ブラーニン」つまり「ブラーナを有するもの」とは生きものを意味し、「ブラーナ」という語の複数は生命を意味した。
古典ヨーガと同様、ハタ・ヨーガにおいてもブラーナ「息(気)」の役割は重要である。
「微細な身体」はブラーナ、つまり生命エネルギーの循環システムである。
この生命エネルギーの根源は人体の基底部、つまり大地の要素でできた部分にあり、そのエネルギーが身体の上にむかって動き、最後に頭頂に達すると精神的な至福がえられるのである。
「気」は微細な身体の中に中に張り巡らされた脈(ナーディー)の中を走り抜ける。したがって、理想的な「気行」を実現するためには、脈の配置を知らなければならない。
一般に脈は72000本あるとされ、この途方もない多さは「粗大な身体(現実の身体)」の厚みに、ピッタリ重なるように「微細な身体」が当てはまるようになるために必要なのだそうである。
なお、これほど多くの脈の中で。特に重要なのが、中脈(スシュムナー)、イダー脈、ビンガラー脈である。
ハタ・ヨーガの行法が行われる場である「微細な身体」は、一人のヨーガ行者の身体であるとともに宇宙でもあるということで、「微細な身体」は、ヨーガ行者という小宇宙が大宇宙との同一性を感得する際の媒体となる。
↑微細身のチャクラ
インドでは、宇宙とは別に存在する神がいることを認めておらず、一人ひとりの身体が宇宙であり、すべての宇宙全体を神とし、宇宙は構造を持ち、完全で聖なるものであるとする。
↑微細身のチャクラのあるヴィシュヌ神
なお、「微細身の構造」については、ヒンドゥー教のヨーガではタントラ秘法(仏教では後期密教)として行われ(日本は中期密教なので異なる)ていたもので、内容は次の通りである。(「タントラの世界(フィリップ・ローソン著)」に詳しい記述がある)
スシュムナー・ナディー(脈管)に沿って一連のマンダラ円盤が一列に並んでいる。
これは一般的に、チャクラ、すなわち円盤として知られ、通常それぞれ異なった数の花弁をもつ一連の開花した蓮華を美しく造形したものによって表わされる。
ヒンドゥー教と仏教とでは、存在するとするチャクラの数に相違がある。
ヒンドゥー教は基本となる六つのチャクラを数えるが、仏教は四つにすぎないとすることがある。
ヒンドゥー教のいくつかの系統のなかでも、より高度化した系統では、人間の形をした微細身の最上位のチャクラを超えたところ、つまり頭の上方の神の領域に、多数のチャクラが発見される可能性がある。基本的な六個のチャクラは、すこし心のうちを覗いてみれば発見することができるというが、実は、これは特殊な型のヤントラ(*)である。 因みに、中国の道教もよく似た微細身をもっているそうで、それは、脊柱風の導管と出入口をもち、身体の各部位はさまざまに象徴化されており、それを内的流動物が巡訪するのだそうだ。
*ヤントラは、サンスクリット語で「道具」「機械」「装置」を意味し、ヒンドゥー教やタントラ(密教)において宇宙や神のエネルギーを幾何学模様で表現した神秘的な図形のことです。
瞑想時の集中力を高め、特定のエネルギー(繁栄、富、保護など)を引き寄せるお守り(護符)として、寺院や一般家庭で使われることが多く、特定の神々やエネルギーを宿すと信じられ、身に付けたり部屋に置いたりして用いる。「視覚的なマントラ」: 音のエネルギーがマントラなら、図形のエネルギーがヤントラ、「神秘の図形」: 宇宙の心理を表す神聖な幾何学模様(三角、円、四角など)で構成される。
瞑想において、ヤントラの図形に意識を集中させることで、心を落ち着かせ、深い瞑想状態(三昧)へと誘う「助け」として活用されます。
「シュリ・ヤントラ」: 「すべてのヤントラの王」とも呼ばれ、女神ラクシュミーが象徴され、富や繁栄、調和をもたらすとされる。
↑シュリ・ヤントラ
脊柱の基底、会陰部にあるタントラ・チャクラは、ヒンドゥー教タントラでは、この最下部のチャクラを、「ムーラーダーラ(支床根)」と呼ぶ。
最初にヨーガ行者は、スシュムナー(中脈)のまわりを上から下に螺旋状にのびる二本のナディーに沿った、また左右の鼻孔にある二点を通過する、内的循環組織を設定しなければならない。
このナディーは、イダーおよびビンガラーと呼ばれ、 太陽と月であり、右のものは白く、左のものは赤い。それが完成すれば、外に流れて行こうとする世界のエネルギーを、 チャクラの花弁の輪のなかに、ついで、その中央にある頂点を下にした三角形・女性のヨーニ(生殖器)のなかに引き込むことができる。
↑ヨーニを表象する浮き彫り
このヨーニへの礼拝を外画化させたサーダカは、ヨーニ・ムドラと呼ぶ彼の会陰部の筋肉を大いに緊縮させ、 自分のなかにヨーニがあって、それは彼の世界を創造する玄妙な生殖器官であることを意識し統御する。最後にこのエネルギーは集約され、クンダリニーと呼ぶ得体の知れない雌蛇の形に変わる。
ちなみに普通の人の場合、クンダリニーは、 活発に動き回り、幾重にもとぐろを巻いて周りの世界を増殖したあと眠っているのだそうだ。
クンダリニーは、五十のサンスクリット文字を自分の楽器の弦にして「自分の歌をうたい」、その歌から、いくつもの世界のすべての形態が織り出されると言われている。それを聞いてそれが真実何であるかを知る者は、実際に解脱する。
サーダカが目指すことは、クンダリニーを目覚めさせ、更にヨーガの体位、筋肉運動、性交を利用してそれを活発にすることである。そのようにしてクンダリニーを真直ぐに伸ばし、スシュムナー・ナディーの下端に入り込ませる。
クンダリニーは、チャクラの中央に立つ内的リンガムに巻き付いており、その口でリンガムの開口部を塞いでいる。この開口部は、クンダリニーがスシュムナーに入って行かねばならない入口と同じものである。
この瞑想の過程は、クンダリニーをスシュムナーを伝って上に「押し上げ」、順次上位のチャクラ、すなわち上位の蓮華にたどり着かせるというものである。
そうすれば各チャクラでは、「暗夜に火が点ったような」瞑想が超俗的な次元で開始される。
各チャクラでは、そのチャクラのマンダラ・ヤントラで念想を集中し、マントラがこれに手を貸して従った「変容」が起こる。
また、チャクラごとに花弁の数が変わる運華は、宇宙原理が粗大なものから緻密なものへと徐々に変容するありさまを象徴している。
仏教では、仏陀が5大元素の各階層に居坐しているが、この仏陀はそれぞれに強度の異なる意識が満ちた状態の瞑想者自身の人格を表わしているのだそうだ。
仏教のヨーガでは、下から上へと進む連なりは、仏教徒が生殖器官に中心をもってくることを嫌うために、一つだけ上方にずれているということだ。
ヒンドゥー教が生殖器官のうしろに置き、仏教徒がへその位置におく六花弁のスヴァーディスターナでは、実体はその形も定かではなく、青みがかった薄い光を放つ水のような状態にあることが知られている。
へその位置にヒンドゥー教の十花弁のマニブーラ・チャクラがある。その名の意味は「宝玉の都」。
仏教のタントラでは、この中心は「心臓」に位置する。ここには神秘の火が燃え盛る区域がある。
ヒンドゥー教では、デヴァター(女神)が火葬場の守護神であるため、このチャクラの階層では、世界は、上方と下方の心霊エネルギーが共同して発生させた炎のために焼き尽くされ変容し、そして時間は、理解を越えたものとなるという。
スシュムナーの心臓の高さの場所には、十二の花弁をもったヒンドゥー教のアナーハタ・チャクラがある(仏教ではそれは喉の高さにある)。
そこは、時間と空間の無限の可能性の領域であり、そのなかでもっとも基本的な宇宙音の振動数がその最初の振動の型を作り出す。ここで見るヒンドゥー教変身女神は、モンスーンの雲の間に発生する稲妻のように黄色を帯びるそうだ。
もっとも重要なことは、ヒンドゥー教では、この中心に賞金の女性(下向き)三角形があり、その内部に、拠って立つ台座のない、卵形の、自ら発生したシヴァ・リンガがある。それは、ここ最初期の形体化段階の内部で、無から自己を作り出し成長させるので、ここには「他のもの」とは違った「自分であること」の感覚の根が住みついているという。
↑インドにおけるシヴァ・リンガの12霊場を示すポスター
ヒンドゥー教タントラで喉にあるチャクラ(仏教で、喉にあるチャクラ)は「風」の区域であり、ヴィシュッダと言い、 十六の花弁とくすんだ紫の色をもつ。それは、可能なあらゆる有形的表現の及ばない知識の状態を象徴している。その中央に白い円があり、主神は、分離して男性と女性であることが顕著となる前の実存的状態にある半男半女の姿の原初両性原理である。
ほとんどのヒンドウー数タントラは、空の領域を「喉」にあるとするために、その上に更に二つのチャクラを置いている。
一つは、アージュニヤ ―と呼ぶ二枚の花弁をもった白いチャクラで、両目の間に位置する。
もう一つは、千の花弁をもつサハスラーラと呼ぶもので、頭部の円頂にある。
アージュニヤー、すなわち智慧の「第三の目」の位置で、サーダカ(探究者)であるヨーガ行者の能力は無形の黙想の状態に達する。そこには、 意識のもっとも微妙な状態があり、マントラは、ほかならぬ「オム」である。デヴァターは、ヨーニの形のほかにはなく、それは楕円形の純白のリンガを包み込んでいる。
このチャクラはおそらく、ヒンドゥー教タントリカ(タントラの教えを実践する人)にとって、瞑想のためには他のどれよりも大切なチャクラであろう。
それを越えたところにサハスラーラがあり、その千の花弁の輪は、天上空間の一切を呑みつくす虚空に向かって口を開いた、比類のない輝きの光を放つ点をかこむ。その光線は、不死のアムリタであり、ニルヴァーナを経験させるもの。
それは人とその世界を支える神そのものへの入口であり、解脱と創世活動のいずれものための場所であり、そこに到達できるのは、性交で一体となった男女だけである。この性交が、純粋に精神的、象徴的であるばかりでなく、実際に自分の体を使った有形のものである必要があるか否かについては、議論が分かれている。
↑最高智ヴァジュラダートヴィシュヴァリーと合体するヴァジュラサットヴァ
今日僅かばかりのヒンドゥー教の宗派にしか残っていないタントラの最古層の考えは、外形上も明らかな性交がもっとも強力な手段であることをまず間違いなく認めている。
この交わる男と女は、相手が持っておらず完全とはなっていないものを、文字通り互いに相手に与えるのだという。
↑赤いダーキニーを抱き解脱へ向う菩薩チャクラサンバラ
インド国内には「微細身の全構造」を簡略にして表わすタントラの図像が無数に残っている。
チャクラをその神秘的な意味を書き添えて描いた神人の身体図が多数あるが、その外にも、平らな面に多次元の象徴表現を配したヤントラや図面がある。
また、チベットの絵画は、心的宇宙要素の意味を似たようなやりかたで定めているのだそうだ。






