15437月、52歳となっていたヘンリー八世は6回目の結婚をする。今度の妃は、31歳の未亡人、キャサリン・パー(Catherine Parr)である。彼女は2回結婚したがいずれも夫と死別した。子どもはいない。キャサリン・パーはヘンリーの長女(最初の結婚で生まれた)メアリーと親しく、メアリーの邸に出入りしていたので、そこで王との接点が出来たされている。

                     

 キャサリンにとって1543年は忙しい年であった。彼女の二番目の夫が亡くなったのがその年の2月頃であった。その僅か5か月後、今をときめくイングランドの君主、ヘンリー八世と結婚したのである。

                           

                            キャサリン・パー王妃 

 

キャサリン・パー妃は、聡明にして穏やかな性格の女性であった。当時では珍しく女性にしては高等教育を受けていて、多くの書物を読んでいた。彼女は、プロテスタントの思想に強く共鳴していて、その立場から文才にも長けていたキャサリンは、36年の生涯において3冊の図書を出版した。そのうちの2冊目 の図書、「祈り、または瞑想Prayers or Meditations」は、在位中に出版された。英国の王妃が在位中に実名で図書を出版したのは、彼女以外に例がない。内容も高く評価された。

 

このようなキャサリンをヘンリー王は深く信頼し、皇太子である幼いエドワードの教育役に任命した。また王は、しばし政治のことについても彼女の助言を求めた。キャサリンの口添えもあって、ヘンリー王の二人の王女、メアリーとエリザベスを私生児から嫡出児へと立場を変えた「後継者法」が成立した。キャサリンは、王の三人の子供たちとも親密な関係を維持していた。

        

 

1544年、ヘンリー王は落馬事故の後遺症が悪化する足を抱えて、在位中最後のフランス遠征に出陣した。それから戻ったあと、王は更なる足の悪化に加え、幾つかの病に冒され病床で過ごすことが多くなった。運動不足と美食による肥満は益々募り、晩年王の胴回りは140センチになっていた。加えて182センチの身長を有する王はまさに巨漢で、歩行もままならず、宮殿内の移動も輿にかつがれなければならない程だった。この間、王妃は献身的に王に尽くした。 -母親のように、あるいは看護師のように。

 

ヘンリー八世は、潰瘍化した足に加え、肝臓病、痛風、脚気などに冒され15471月に55歳の生涯を閉じた。死因について多くの研究が成されているが、「多臓器不全」とする向きが多い。

 

これまでは、ヘンリー八世については結婚関連のことについて主として触れて来たが、少しそれ以外のことについても、簡略に述べておきたい。ヘンリー八世に関する研究書等は、英語で無数というほど出版されている。

 

現代の「ヘンリー八世」学者の中で最高権威と言われるデービッド・スターキー(David Starkey)は、ヘンリー八世は英国君主の中で「最も権勢を振るった王(The most powerful king)」と称している。スターキーは2008年には「ヘンリー八世:高潔のプリンス(Henry VIII: A Virtuous Prince)という書物を出版し、その中で1509年から1530年代(アン・ブリンと出会うまで)のヘンリーは文武両道に秀でた名君であったと評している。彼は身長182cmの恵まれた体格で、槍術、馬術などに秀でており狩猟を好み山野を駆け巡った。文才にも長け詩や政治、宗教に関わる論文やエッセーを多数残した。楽器を演奏し、作曲もした。彼の作曲した小品が残されている。

 

政治の面では、ウルジー枢機卿など老練な信頼出来る側近にも恵まれた。しかしヘンリーは、即位初期から反対者を追放し処刑するという手法を取り, これを治世中取り続けた。

 

宗教的には、熱心なカトリック信者であった。ルーテルの宗教改革直後、ヘンリーは「七つの秘跡の擁護」をラテン語で発表しカトリック教会の立場を、強く支持した。このため時の教皇レオ10世は、ヘンリーに「信仰の保護者」という称号を授与した。この称号は、ヘンリーが破門された時に、取り上げられたが後に英国議会が国教会の首長としてのヘンリーに対し、新たに「信仰の保護者」の称号を贈呈した。現在でも、英国国王はこの称号を使っている。英国の硬貨にはDF(Defender of Faith) という二文字が刻まれている。(イングランドの教会を教皇庁より優位としたが、カトリックの教えは終生信望していた。祈りは欠かさなかった。ハンプトン・コート宮殿には、ヘンリー王の礼拝室が残っている。映画「千日のアン」でもヘンリーが熱心に祈る場面が出て来る。)

 

父ヘンリー七世から引き継いだ。チューダー王朝は、ヘンリー八世により、更に強固な基盤を築き王の立場は常に安定していた。無謀な2回にわたるフランス出兵で、国家財政を危機に陥れたが、修道院の財産没収などにより切り抜けた。イングランドが外敵の危機に晒されることはなく、何度か起こった内乱も局地的に抑え込まれた。専制君主であったが、ヘンリーの治世は372百数十日に及び、これは1066年のノルマンのイングランド征服以来の王の治世では2番目の長さである。

 

しかしアン・ブリンとの結婚を決意して意向、その統治には冷酷、利己的な蔭が付きまとう。晩年には「好色」などとの汚名も着せられる。2008年に「高潔なプリンス」を出版したスターキーは、今年に入ってから出版したのがHenry VIII: Model of a Tyrant (ヘンリー八世:暴君の見本)」という書物である。読んではいないが、内容はタイトルから推して知るべきであろう。毀誉褒貶相なかばするどころか、むしろ悪いほうであったのではないか。贅沢は一生続き、常に豪華な宮廷を維持した。彼が亡くなった時、国庫はほぼ空であったといわれている。従って当時の一般国民の生活は決して楽ではなかった、という研究書も何冊か出版されている。

 

さてヘンリーと死別したキャサリン・パーであるが、彼女は王の死後、ミニ・スキャンダルというべき話題を提供する。キャサリンは王の死後、4か月足らずして結婚前の求婚者だったトマス・シーモア卿と結婚する。しかし王の死後あまりにも期間が短かったので、彼女の4回目の結婚は数か月発表されないでいた。この結婚のことが知り亘ると、あれほど親しかったメアリー王女は激怒し、絶交を宣言する。メアリーは義妹のエリザベスにも同じような行動を求める。

 

しかしキャサリン・パーも薄命であった。1547に身ごもり(過去三回の結婚ではそのようなことはなかった)15488月に女児を出産するが、10日後に産褥熱のため死去する。36歳であった。生まれた女児は2歳まで生存した記録が残っているが、それ以降のことは解らず、おそらく2歳で死亡したと推測されている。夫のトマス。シーモア卿は翌年反逆罪に問われ処刑される。

 

こうしてヘンリー八世の6人の妃のうち5人は亡くなった。4人目の妃、クレーフェのアンナは1557年まで生存する。

 

ヘンリー八世の時代(1491-1547)は日本では、まだ足利幕府の時代であった。

戦国武将たちた天下統一の目指して、覇権を争いだすのは1540年以降である。

信玄対謙信の川中島合戦は、1553年であり、また信長の桶狭間の勝利は1560年でいずれもヘンリー八世死後である。

 

ヘンリーの後はその子供たちが後を継ぐ。エドワード6世は、病弱で15歳で結核で死去。そのあと彼の遺言により従妹のレイデイ・ジェーン・グレイが王位に就くが反撥したメアリーが挙兵しロンドンへ進軍する。15537月である。その勢いに驚いた枢密院はジェーン・グレイの廃位を決め、彼女を捨て去る。メアリーはイングランド史上初の女王となりレイデイ・ジェーン・グレイを逮捕する。カトリック回帰を目指すメアリーは、ジェーンがカトリックに帰依すれば恩赦を与えると提案するが、ジェーンはこれを拒否。合えなく164か月で斬首の刑を執行される。(1553710日即位、9日退位、在位期間僅か9日間だった)メアリーは、英国をカトリック教会に復帰せしめた。この目的に反対する貴族、政治家、宗教家などを容赦なく処刑した。その数治世5年間に250人を超え、ほとんどが火炙りの刑だったという。これだけ大勢の人を処刑した女王は,史上稀である。人々は彼女に「ブラデイ・メアリー(Bloody Mary) 血なまぐさいメアリー」というあだ名を奉って恐れた。ブラデイ・メアリーは1950年頃ポピュラーとなった、アメリカ発のカクテルにその名を残している。

                          

                          13歳ころのエドワード6世

                          

メアリーは、カトリック国スペインの王、フェリペ二世と結婚した。「遠距離婚」であるが、王は時折イングランドを訪れた。その度に「女王おめでた」の報が流れたが、37-38歳だった女王は、身ごもることはなかった。フェリペ国王も離別はしなかったが、イングランドに来なくなった。メアリ―女王は、誰からも見放され、淋しく1558年、おそらく子宮がんと思われる病で世を去った。享年42歳。

                           

                            メアリー一世 女王

                                                       

メアリーの後を、アン・ブリンの娘エリザベスが王位に就く、1558年である。それから1603年まで続くエリザベスの治世は、英国史上最も華やかで豪華なもの、そしておそらく最高の時代だった。この時代に後の大英帝国の基礎が築かれた。英国艦隊は、スペインの無敵艦隊アルマダを撃破した。文化、芸術面でもウイリアム・シェークスピア、クリストファー・マーロウ、ベン・ジョンソン(詩人)や政治・哲学の思想家フランシス・ベイコンなどが登場し、ルネッサンスの輝きをもたらした。エリザベスは生涯、独身を通し国民から「ヴァージン・クイーン」として慕われた。そのためエリザベスは、子宝に恵まれることは無く、彼女の死をもって5代にわたったチューダー王朝は幕を閉じた。ヘンリー八世の血縁者は全て世を去った。英国は、1603年以降、また新たな歴史の扉を開くことになる…

                            

                             英国の切手に描かれた

                             エリザベス一世 女王