ラミン・バーラミの本 『 バッハが僕を救った 』 | ローマの松の木の下で・・・

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イラン人のピアニスト、ラミン・バーラミの本を読んだ。
ここをクリックすると彼の演奏が聴けます--> italian concerto

バーラミ・ピアノ

バッハが僕を救ってくれた。テヘランで36年前僕の人生が始まった。そのとき祖国であるイランとその国民イラン人、そして我が家族にとっても大きな変換の時期にあった。

その当時のことは小さかったけれども僕ははっきり覚えていて、さまざまな思い出が脳裏に焼きついている。

今までさまざまな苦悩に耐えらえたのはバッハのおかげである。彼の音楽のおかげで嫌いな祖国から離れることができた。

イランに生まれイタリアで大人になり,

現在は最も偉大な作曲家バッハの祖国であるドイツに住んでいる。

彼は僕と違って生涯自分の国から出なかった。

イタリアは想像しただけで終わった。でも譜面だけ見て勉強しただけで、普遍的、世界的、折衷的な音楽を作り上げた。そこには中東の音楽、祖国のメロディも流れている。

そのおかげでホームシックにならなかったし、皆に祖国の雰囲気を味わってもらうこともできた。

バッハの音楽は僕の理想の世界である。

そこではいろいろな要素が入り混じっている。

 東洋と西洋が歓喜の声を揚げながら寄り添う。

黒人と白人が交わり、ドイツ人がシチリアのリズムに酔いしれる。

それは僕を守ってくれる安全で堅固な砦、しかも完璧で美しい建物に例えられる。

もし彼の素晴らしい、踊りたくなるような音楽に出会わなかったら苦しみから立ち直ることができないどころか、精神病院に収容されていたかもしれなかった。

バッハは奇跡を行い僕を救ってくれた。



イランといえば2013年にオスカーをとった、アメリカ大使館占領人質事件を扱った映画「アルゴ」が舞台となった国だが、1925年にシャーになったパフラビは巨大な石油の利益を兵器工場で無駄使いするか一部の人の利益を肥やし、大多数の人に恩恵が施されることはなく国の経済は悪化する一方だった。

世界規模の景気後退が原因で石油の売り上げが落ち込み、待ち望まれていた社会保障計画が不可能になったとき国民の不満が爆発し、1979年シャーはイランから国外追放された。

その後亡命していたホメイニが帰国後、国民の熱狂的な支持を受けてイスラム原理主義政治を実行、シャーの協力者とホメイニの反対者は恐怖政治によって抹殺された。

バーラミ・子供

ラミン・バーラミは1976年12月27日にテヘランで生まれる。

父方の祖父メーディは著名な考古学者でヨーロッパに留学中、ドイツ人で彼と同じ考古学者の祖母アンナに出会い恋に落ちて結婚。彼の父パーヴィズはイランにあったシーメンスとブラウンの責任者だったが、イラン革命前シャーに協力したり祖国に近代的な学校を設立したので、裏切りと陰謀の罪で1983年に逮捕される。その当時、西洋的な考えをしたりそれに関する本を持っているだけで牢屋に送り込まれた。パーヴィズは政治犯として1990年に監獄で亡くなり、その遺体がどこにいってしまったかわからないそうだ。

バーラミの幼年時代はイラン、イラク戦争の空襲に毎日怯えていた。その上、毎夏滞在していたカスピ海沿岸にあった別荘を国に没収されたりもした。

イスラム原理主義独裁者政治では好きな音楽をおおっぴらに聞くのはもちろん、楽譜を買いに行くときも一苦労だったらしい。楽譜店が遠いので彼の母親がついて来たが、公共の乗り物に男女が一緒に乗ることができなかったので、彼は女装させられたりした。

7歳のとき兄のお嫁さんとアイスクリームを食べに出かけたとき、兄嫁が家族ぐるみで付き合っている知り合いの男の人と立ち話しただけで逮捕されそうになって、彼はその窮地を逃れるために泣きわめきながら懇願しなければいけなかった。

彼の両親はヴァイオリンやピアノをたしなみ、家ではいつもクラシック音楽が流れていた。

イラン革命前の裕福なイランのインテリ家庭では、クラシック音楽をたしなむところも少なくなかったようだ。

ピアノの手ほどきは母親、その後イラン人のピアノ教師に指示し、知り合いの音楽家のところでホームコンサートを行い、13歳のときイタリア領事館長を通じてジェノバの石油会社の援助で奨学金を受けることになりミラノのヴェルディ音楽院に入学試験を受けに行くことになる。

それまで正規の音楽教育を受けてなかったので校長のマルチェッロ・アバド(著名な指揮者の兄)から「この少年の演奏はひどいけど、才能はある。」と言わせるがこの目利きのある人のおかげで入学を許可される。

音楽院では父親がわりにもなる恩師ピエロ・ラッタリーノと出会う。最初はテンポはめちゃくちゃだし演奏記号は守らないし、教えるのに一苦労の生徒だったらしい。また学校の試験には彼が弾きたくない曲もチャレンジしなければならなかった。(彼の弾きたいのはバッハだけだった)でも持ち前の根性と努力を持って困難を乗り越え一番で卒業する。

その後イーモラのマスターコースでアンドラス・シフ、ロザリン・テューレック、ロバート・レヴィン、アレクシス・ワイセンベルグらに師事する。

2001年ドイツに移住、あちこちで演奏活動をしているが、デッカレコードから10枚ほどバッハのレコードを出した。彼の「フーガの技法」のレコードを気に入って50回も聞いたリッカルド・シャイーとのコラボであるピアノ協奏曲のレコードもある。



2013年7月にはバッハのマスターコースで教えた生徒のイタリア女性とローマで結婚式を挙げた。