『対岸の彼女』角田光代
新年一冊目、読書をしました。
リアルな人とのかかわりの描写に、感情が揺さぶられすぎて、苦しかったこと、悲しかったこと、寂しかったこと、学生時代からのあれやこれやを追体験しているような感覚になった。
あれ文字がぼやける、あれ私泣いてるわ、という場面が何度もあって、気付けば涙があふれ出ていた。
実は年末にもう一冊読んだ。
『銀の夜』角田光代
それを受けて図書館でこの作家さんの本を探しての出会いだったけれど。
こちらもリアルな心の描写で。
え、なんでこの感覚が分かるの。私だけじゃなかったの。こんな幼くてくだらないことで悩んでいるのなんて、こんなの私くらいだと隠して生きてきた。でも死にたいくらいの苦しさを、ありのままに描いてくれる。
人と出会うこと、距離感の難しさ、寂しさ、それでもまた出会いを求めて生きていくこと、
浄化されるような、そっと寄り添い一緒にこれからも歩いていこうと思わせてくれる優しさと強さをもらった気がした。
心に響いた文章をいくつか。
●自分がときおり、何もかもうまくいかないと悲観的に思いこんで、外に出ていくことがとことんいやになってしまうのは、岩淵さんみたいな女性が原因なのだ。まったく垣根のないような気やすさで、だれかれと境なく悪口を吹きこみ、それに賛同するようあおり、けれど気がつけば自分自身がやり玉にあげられていたりする。
●いやならさ、いやだと思うことに関わりを持たなきゃいいんだよ。かんたんだって、そんなの。宇辺さんも、相原さんも、いい人だよ。
●アオちんがいじめられていたのはさあ、きっと、嫉妬されたんだよ。みんなにないものを持ってるから。持ちすぎてるから。
●あんな場所でもなんにもこわがることなんかないよ。もしアオちんの言うとおり、順番にだれかがハブっていったとして、その順番がアオちんになったとしても、あたしだけは絶対にアオちんの味方だし、できるかぎり守ってあげる。ね、みんなが無視したって、たった一人でも話してくれたらなんにもこわいことなんかないでしょ?
●あたしさ、全然怖くないんだ。そんなの。無視もスカート切りも、悪口も上履き隠しもほんと、ぜーんぜん怖くないの。そんなとこにあたしの大切なものはないし。今みんながあたしについて言っている事は、あたしの問題じゃなくあの人たちの抱えてる問題。あたしの持つべき荷物じゃない。
●ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね。
●自分がやりたかったのはこういうことだった。立ち止まる前にできることを捜し、へとへとになるまで働き続け、その日の終わりに疲れたねと笑顔でだれかと言い合うこと。
●なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げ込んでドアを閉めるためじゃない。また出会うためだ。出会うことをえらぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。
主人公の小夜子に感情移入する場面もあれば、対岸の葵に感情移入するところも。
対岸の彼女という題名は最後の最後で、そういうことかとじんわり胸に広がるものがあった。
この人となら何でも分かり合えると思える人も歳を重ねるにつれ、生活環境の違いからずれは生じてくる。出会っては分かれての繰り返し。でも、それでも川に橋をかけ、対岸の彼女に会いに行くことはできる。
この人となら何でも分かり合える、なんでも知りたい、そうやってぐいぐいと距離を縮めようとしてしまうところが私もある。それで拒絶され失敗した別れを何度も経験した。
人とかかわることが怖くなって、人を信じられなくなて、うわべだけの付き合いで、自分の殻にこもりがちになってしまう。それでも歳を取っていくのは何のためなのか、小夜子は悩んでいるのよね。
でも、人との出会いって、自分の中に相手の鋳型を作ることで、その人にしか埋められない穴ができる。いろいろな人と出会い穴ぼこだらけになって、でもその穴が人を形作っていく。
そしてその穴を、心に空いた空洞を埋めたくて、また出会いを求めて生きていく。穴が生きる原動力になっている。
人は分かり合えないものなんだ。どれだけ仲良くなっても、相手を理解していると思っても、どんなに一緒にいても、結局は他人。違う人間で、成長するにつれ、生活環境は変わり、違う経験を重ね、どんどんズレは生じてくる。違う考え方、その人なりの穴が開き、抱える思いも変わっていく。
対岸にいる、違う生き方をする人なのだから、分かり合えることは一生ない。それでも橋をかけて、分かり合おうとすることはできる。
「ばいばい。」という言葉が、また明日変わらない私たちで会おうという意味と同意義だったころとは違う。歳をとるにしたがって、ずっと一緒にいた人が、自分の知らないことを経験して、自分の知らない人になっていくことはとても怖い。違う相手になってしまったあなたに嫌われることが怖いと、もう二度と会わないと、自分の殻に閉じこもることもできる。それでも、空いた穴を埋めるために、人は出会いを求めてしまう。そういうもの。
だから、もう一度信じてみればいいの。会わなくなったあの人とも、また会える時が来るかもしれないと、そのために自分も歩いていくの。
いろんな出会いの中で、完全に分かり合えることはないのだということを理解して、それででも分かり合えないことを理解したうえで、まるっと相手を受け止めてみる。そうすれば、案外人付き合いって気楽なのかもしれない。
分かり合えないと分かっていれば、それでも人と生きていかないと生きられないのだから、人の悪口なんて言い合っていたって寂しさは埋まらない。分かり合えないことも含め、どうせなら相手のいいところを、いいことを受け止めて生きていく。
みんな結局対岸の人間なの。分かり合えないのよ。なんかそう思うと心が少しほぐれた。
それでも誰かに対して不満が生まれてしまう。誰かをいじめないと生きられない。そういったことは結局、自身の問題で。自分の中に何か踏み出せない闇を抱えてしまっていないか、立ち止まってみるのもいいのかもしれない。
いろいろな人の感想文を読んでより理解を深められたので。
●私は、この数行のためだけに、何度も『対岸の彼女』を読み返している。
向こう岸から、手を差し伸べようとしてくれている
なぜ彼女は対岸にいてもう会えないかもしれないのに我々は川沿いを歩き続けるのかを問う。対岸を歩き続けるのだから相手は自分の経験していないことを経験する。ずっと一緒にいた彼女が自分の知らないことを経験しているのは怖いことだ。歳を重ねれば自分の時間を過ごして自分の殻に籠もる自由も手に入れられるのだから、ずっと会わないという意思決定もできる。しかし主人公は、再び出会うために歳を重ねるのだと結論づける。この会わなくなってしまった誰かとの関係性の描き方が絶妙である。いまはインターネットで名前を検索してしまえば会えるかもしれずそれも便利だけれども、たとえ会えないリスクが多くても会える偶然にかけてリアルな世界を生きたいとも思った。
●分かりあえない者同士生きていく
そしてその友だちとも、学生の頃のように同じ明日を当たり前に思い浮かべることはもうない。どれだけ仲が良くても、わたしがそうであるように、彼女たちも様々な経験をして、考え方も想像する未来も変わっているだろう。ずっと大事にしようと思っているけれど、なにかをきっかけに心が離れてしまう可能性もなくはない。それでもわたしたちはどうしてか、きっとずっと友だちでいられると、願いに近い確信をもっている。
他人とわかりあえない虚しさを知りながらわたしたちは出会いを求めてしまう。誰かといることを選んでしまう。
相手の全てを理解したつもりだとしても、自分と相手が同一化することはない。他人と出会い、分かりあえない部分に自分を見つける。
それでも相手のことを分かりたい、自分のことを分かってほしいと願い、期待し、勝手に裏切られたような気持ちになる。それはきっとお互いにそうだ。親密だった誰かと別れて、心に空いた穴によって自分の形が作られていくとも思える。
だからみんな出会いと別れを繰り返しながら歳を重ねていく。
人はひとりでは生きていけないけれど、みんな孤独を抱えている。
同じ気持ちを共有しようとして、どれだけ陰口をいっても、いじめの標的をみつけても、孤独な部分は埋まらない。それなら、自分もみんなも孤独なんだ、孤独を持つ者同士で生きているのだと、認めたほうが楽だ。
本当に大事な相手なら、より一層、完全には分かりあえないということまでひっくるめて受け入れて生きていかねばならない。そうしていつも向こう岸にいる彼女と交わる橋をかけよう。
だからやっぱり、結婚してるかどうか、子どもがいるかどうか、女だからとかそんなことは関係なく、そもそもわたしたちは分かりあえない。それをこの本を読んで改めて強く認識させられた。
それでもわたしたちは分かりあえない者同士生きていくしかないのだとも。
ズレから生じる亀裂は、立場うんぬんというより、彼女たち個人の問題かと思います。
最後に
森絵都さんの解説から。
●人と出会うということは、自分の中に出会ったその人の鋳型を穿つようなことではないかと、私はうっすら思っている。その人にしか埋められないその鋳型は、親密な関係の終了と同時に中身を失い、ぽっかりとした空洞となって残される。相手との繋がりが強ければ強いほどに空洞は深まり、人と出会えば出会うだけ私は穴だらけになっていく。
一体どうしてそんなイメージを抱くようになったのか。
人と出会うこと、自分の内部にその人をすっぽり受け入れることに、いつからこんなに弱腰になってしまったのか。