変革期の教師が求めた最先端とは。 | SPACE BOX

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放浪理系ラテンジャズミュージシャン碧川サヤカ(さかいさやか)のページです。
日々の出来事や思いをつれづれなるままに。科学と日常、音楽と、好きなものを好きなだけ語ります。

放浪理系女史・ミドリカワです。


これまでの概念が通用しない客体が現れたときに、どう事象と向き合えばよいのか。

これは日常生活でも突如として起こることはありますが、世界的にも新しい認識をせざるを得ない展開が来たときにどう現実を受け止めていくのか。


今もそんな時代かもしれませんが、物理学でそのような事件ともいえる『量子力学の登場』が日本でどう伝えられているのか………その一端を覗いてみるとしましょう。


本日はこちら。
昭和14年発行の『最近物理学の問題』からです。

著者の福田光治先生は理化学研究所にいらっしゃった方のようです。他にも物理学に関する当時の先端研究に関して書籍を出されています。
J-stageで論文検索すると応用物理学会で写真光学に関するものなども執筆されていますが、詳細については残念ながらなかなか出てきません。

こちらはヤフオクで落札したのですが、当時物理教師をしていたという方の形見なんだそうです。
一般向けに、動向をシンプルに知見とともに纏めたものといった感じです。

今ほどの情報量は無くても、この当時は物理学にとっても激動の時期です。原子核物理学や量子力学の萌芽がいよいよ形になってくるうえ、錚々たる面々が新たな発見を次々と為していくなかで、日本でも理化学研究所でサイクロトロンが仁科芳雄先生のもとで完成したばかり(サイクロトロン建設は大阪大学が少し先)でした。いよいよ原子核物理学が国内で発展していくという期待もあったのではないかと推察されます。
少しでも早く、最新の動向を得るとともに自らも最先端となるべく奮闘されていた時代です。
このあとのGHQによる日本のサイクロトロンの悲劇はまた別でお話するとしましょう。
ちなみにこの年のノーベル物理学賞は1932年にサイクロトロンを考案したアーネスト・ローレンス先生に与えられました。

では、本文にいってみましょう。

前半は因果律と古典力学との関連。不確定性原理がメインです。

量子力学の概念は古典物理学のようには行きません。
後者は時間の流れとともに法則に基づいた仮定や予測も可能であり、測定によって見出される前提。
これは我々の可視で観察可能の範囲であれば問題なく行けてました。
しかし、これが通用しなくなる世界があるとなるとどうなるか。振る舞いも法則も、今までに照らし合わせれば「異常」にも映る現象が事実として浮き彫りになってくるのです。
そのときに、本文にあるように『従来の物理法則を疑うのではなく単に形式が変わるだけ』と捉えるように促しています。柔軟に転換せよ、と。

欧米諸国で新たな発見が立て続けに。その流れで自ずとこの分野でもこれらの国々が主導となっていきます。
そんな中でも日本も先端研究に気炎を上げる人はいるのだという記述です。
現代でも同じ界隈でなければ見向きもされない、その筋だけでの有名人てのはありますが、それで収めるにはあまりにも勿体ないということです。
知らない、興味ないで済ますことがどれだけ価値を見失い、機会も見逃すことになるのか………改めて考えさせられます。

後に湯川先生など、新しい物理学分野で功績を上げていかれるのですが、その基盤が既に戦前の時期に作り上げられてきていたのです。
新発見を巡る厳しい競争のなかで、いつ結果として実るか分からなくとも、探究することで大きな成果となる流れを感じます。

いまの時代はつい即物的に『直ぐに役に立つのか』『そのことが何に使えるのか』といった疑問に早急に応えられないと評価されない側面も無くはないですが。

量子力学の登場が如何に概念の捉え方に対して一石を投じたのかも、記述からも伺えます。
実在、感覚、客観………あれこれひっくり返される勢い。
改めて物理学とは何かを考え、これまでの思想が作り上げられてきた過程から更に『新しい物理的所在を掴んだ』ところまで来たと書かれています。


そして、後半はエネルギー保存則の問題。質量欠損などですね。
アインシュタイン先生の『神はサイコロを振らない』問題も。
古典思想が深く喰い込んでいて既存の考えから脱却出来ていない老大家………ちょっと手厳しいですね。

わかっちゃいるけど受け止められない、新しいものが出るときの抵抗感は御大たちをもってしてもあったのですね。にんげんだもの。

で、新しいものを見出したからといって、古いものは否定されるものではないと書かれているのは先述のとおり。
ここでも改めて、不思議である事象が先端的な原理として還元されたからといって、全てが変わるわけではないという立ち位置になるわけです。

さらには各元素はそれぞれの個性を保持し、自然の美も人工の美も与えられ、生き甲斐のある人生を教えてくれるとまであります。

それぞれの個性と活かし方による表情の違いも、事象から学んで美しさを受け取る感性を養うために、当時の教育者として何を思ったのでしょうか………気になるところです。

ただ、無理に壮大にしなくてもよく、一つの些細にみえる興味や発見から何かしら得るところから始めればよいとも思います。
あまりにも大きな発見がそびえ立つといえど、小さな発見や度々の失敗、数多の経験が土台にあることには変わりありません。些細なことをないがしろにはできないのです。

そして、結びでは、実際の教育現場ではどうあることが望ましいのかを書いています。

直接自然の懐に飛び込んで己を探る気概こそ本懐である。

これが叶うのであれば、冷静というよりときに冷淡に見られる心も豊かに見られるように思います。
ただ、生徒の自由検討をゆるさず………というのは個人的にはちょっと違うかなと。
古来からの法則の真意を叩き込むのも分かるのですが、相当な原理の理解を要します。

型の製作にあまりに凝っている………だからこその基礎でしょうが、自然の懐に飛び込むのであれば、もっと思い込みや与えられた概念に囚われるもとは作らなくてもよいのではないかなと。
形から入るしかなかった試行錯誤の時代の流れもあるのですが、型の製作になってきていたのは現在でもそうなのかもしれません。

ともあれ、余計なバイアスを取って、冷静に現状をみて物事を判断できたらと思うところです。