放浪理系女史・ミドリカワです。
前記事の続きです。
同じく、昭和28年発行の大日本図書版・高校物理(下)より。
敢えて。
「おわりのことば」は、今回最も引用したかった内容です。このために其の弐を書いたようなものです。
物理学史の要約として非常にシンプルながらも的を射たものです。ここに引用させていただきます。
(これより引用、一部改行)
物理の学問は、最初人間の感覚と密接な関係をもって発達した。すなわち筋肉の感覚に対応して力学、温度の感覚に対応して熱学、聴覚に対応して音響学、視覚に対応して光学ができた。電気や磁気の現象は古くから知られていたが、その研究の発達はおくれた。以上の六つの部門に物性論(液体・気体・弾性体などの性質の研究)を加えて、ふつう物理の七部門といわれてきた。しかし、学問の分類は時と共に変わるもので、今日では原子や原子核に関係する原子物理学が、物理の重要な部分を占めている。
物理は2000年も昔から次第に発達してきたものではあるが、これが本格的に発展の軌道にのったのは、1600年代以後である。すなわち、西洋のルネッサンスの後である。そのころからあらゆる自然科学が発達してきたが、物理はその基準となるものである。その学問の体系は一番整然としており、数の少ない法則から多くの現象を説明できるという性質は、一番はっきりとしている。こういう学問は、多くの先覚者の血のにじむような苦心によってできたものである。科学の祖ともいうべきガリレイは、地動説をとなえたために投獄されたことはよく知られている。マイヤーは医者として船に乗り込んで東洋航路に載っていながら研究を重ねて、ついにエネルギー不滅の原理をとなえたが、ドイツ学会では気狂あつかいにされた。
自然科学特に物理は、多くの自然現象がどのように起っているのかを明らかにし、法則を発見するというものであるが、同時に自然現象を人類のために役立てている。
科学がようやく進歩し出した1600年初期において、望遠鏡の発明はいかに人を驚かせ、また人知の進歩に役立ったであろうか。
1700年代には熱学が進んだが、それは蒸気機関の発達に伴っていた。蒸気機関の発達は、工業の方法を一変させ、産業革命を生んだことは、よく知られたとおりである。
1800年代にさかんになった電気や磁気の研究は、発電機・電動機・電燈等の文明の利器を生み、さらに電波の発見から今日のラジオやテレビジョンとなって、今日の文明時代を作った。
さらに原子核の研究は1932年ころから急にさかんになったが、最初は純粋に学問的の研究で役に立たないものと思われていた。しかし、これが十数年の後には原子爆弾となって、将来の文明に大きな暗示を与えたことはだれもが知っていることである。石炭も石油もやがて地球上で取り尽くされてしまうとき、人類は何を燃料として利用し得るであろうか。おそらくこれに答えるものは原子力であろう。そして物理の研究のみがこれを可能にするであろう。
(引用終)
文章として物理学の足跡をまとめた精緻なものは、現在の教科書ではなかなか見られません。
美しい写真・図解は数多くありますが、限られた条件の中で、詳細に伝えようとする表現力は見習うべきものが多くあります。
ビジュアルと公式に支配されている場合ではないな、と。その成り立ちや物語を辿っていくのも、科学分野の一つの楽しみとしてあってもよいものです。
また、短くて簡単、キャッチーな言葉や文章ではなく、こうして読ませるものの存在は思慮を深めてくれるように思うのです。
また、基礎研究のテーマは、一見すると社会の役には立たないように思われるかもしれません。
数学で必ず学ぶ二次方程式ですら、ゆとり教育肯定派の著名な作家さんから「社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」とまで言われたこともあるのですから。ただ、三角関数や行列、量子力学なども役に立たないとおっしゃるのなら、人工知能などのコンピュータ技術にまつわるものは放棄なさればよろしい(笑)・・・ちょっと毒吐きましたわね。
しかしながら、目に見えて役に立ちそうという安易さにとらわれると、「何の役にも立たない」ようにみえる物事による静かな示唆や新たなアイデアの引き金も見過ごしかねません。物理や数学はその法則がシンプルが故の使い道のわからなさもあるのかもしれませんが、自らの体感や応用力のなさで「役に立たない」と決めつけて追放するのはどうかと思うのです。
追放するのは簡単です。が、脈々と受け継がれ、これらをベースにして今利用している技術が成り立っているという恩恵は忘れるわけにはいきません。
知らない、わからない、直接かかわりがない=役立たずではないのです。
基礎研究はどこで役に立つのかは、明確な形ではわからないことがほとんどです。しかし、その後の解明によって、どれほどの発展に寄与することになったのかを今一度、このお偉い方は考えた方がよろしいんじゃなかろうかとまで考えてしまいます。
計算をしろ、というわけではございません。科学のみを肯定・崇拝するものでもございません。
引用の最後の二文も、正しいとは言えなくなっているかもしれません。今や、原子力以外の選択肢も踏まえ、物理学の枠を超えて、化学・医学・生物学などに至るまで試行錯誤がなされています。
ただ、その発展の歴史を支えたものが何かを、単なる公式としてではなく人間の営みの一つとして広く捉えることも必要だということです。
そして、先人たちの叡智に敬意を払うことも、今だからこそ考え直すのもよろしいのではないかと。
まだまだこれから、解明されてくることもあるでしょう。
現在の価値観においても突拍子もない印象を与えるであろうアイデアもあることでしょう。
未来に託す、という選択肢もあってもよいのではないでしょうか。
今は疲弊したり、窮屈だったり、余裕がないのかもしれません。
だからこそ、前へ進むための基盤としての基礎研究にいろいろ費やし、裾野を拡げて力を蓄えるところがあるのも悪くないと、市井の人ながらに思うのであります。