放浪理系女史・ミドリカワです。
3/15は酸素が発見された日、だそうで。
イングランド出身の自然哲学者・教育者・神学者・・・などの肩書をもつジョセフ・プリーストリ先生が一般的に発見者ということになっております。発見の日付についての具体的な定義は難しいところですが、1775年に王立協会の会合で「新しい気体=酸素」の発見に関する手紙が読まれたことに端を発しているようです。そんなわけで、今回はプリーストリ先生が主役です。
彼はこのほかにも二酸化硫黄や塩化水素、アンモニアといったお馴染みの気体もいくつか単離に成功しています。
ただ、プリーストリ先生は自然哲学・科学については「趣味」としていたようで、理論はさほど重視していなかった様子。彼にとって科学は神学における不可欠な「要素」としての位置づけだったともあります。とはいえ、極めるところまで極めてしまうと趣味も後世に残る功績に結び付くという一例と言えなくもありません。
残念ながら、彼はフロギストン説(燃焼とはフロギストンという物質の放出過程であるという考え方)を捨てられず、解釈に詰まると「それ、フロギストンで良くね?」「何はともあれフロギストン」となっていたようで。酸素は「脱フロギストン空気」として、今でいう助燃性や呼吸との関連性を見出したことは彼の最大の功績の一つではありますが、フロギストンへのこだわりゆえに、のちに孤立するはめに・・・。
後にラボアジェ先生の唱えた『質量保存の法則』など、新しい(現在も使われている)理論の登場について受け入れるどころか「ややこしい。わけわからん」と反論に徹していたものの、次々発見される発見によってとどめを刺されてしまいます。結局のところ、フロギストン防衛は失敗に終わるのでした。
このことから、「決して娘(化学)のことを認めようとしなかった現代化学の父」と19世紀フランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエ先生が称しています。父であるがゆえ、その威厳に縛られていたとも言えなくもないです。当時の若手にしてみたら「めんどくさいオヤジ」だったかもしれません。
・・・では、そんなプリーストリ先生の気体関連の功績でもう一つ。
ビールの大桶の上に水の入ったボウルをつるしておくと水に二酸化炭素が溶け込むことを発見し、炭酸水を発明したことでも知られています。当時、ビールの発酵槽を覆う空気(二酸化炭素)の中にネズミをつるしておくとネズミがお亡くなりになるということは知られていたらしいです。
二酸化炭素を溶かした水を飲んでみたら爽やかな飲み口でうまい!・・・てなわけで友人たちにもおすそ分けしています。醸造所での副産物だったのですが、これに薬効があると信じられて、大いに売れたとか薬局のスタンドで飲まれたとか後のエピソードも多分にあるものとなりました。
ちなみに、チョーク(炭酸カルシウム)に硫酸をたらして二酸化炭素を発生させて水に溶かす・・・いわゆる「弱酸の遊離」の方法も推奨していたようですが、歴史的にはクレオパトラが遥か前に同じ原理で美を保つ飲み物として真珠とワインビネガーで炭酸飲料を作って飲んでいたという説もあります。また、レモネードに重曹という方法が最初とするものもあります。
なお、日本には、黒船とともに炭酸水が来航。ペリー提督が飲料水としてレモネード(後のラムネ)を艦に積んで持ち込まれたのが始まりです。
以後、清涼飲料水は日本国内で製造・販売されるようになり、商品のバリエーションも広がっていきました。
今でもジンジャーエールでおなじみのウィルキンソンは、1890年に西宮の鉱泉水を瓶詰で売っていたのが始まりです。
また、コカコーラは大正8年(1919年)の明治屋の広告で『衛生的にも嗜好的にも最も進歩せる世界的清涼飲料水』というヘッドコピーが飾られていたほか、高村光太郎や芥川龍之介の作品や書簡にも登場します。
ちなみに、大正15年(1926年)には『清涼飲料税』なんてのが創設され、昭和24年(1949年)に物品税に統合されるまでその名目は存在していました。(実質、平成元年《1989年》の消費税導入まで存続)
課税基準は「炭酸ガスを含んでいること」であり、オレンジジュースなど炭酸飲料でなければ非課税、天然水でも炭酸泉は課税対象となっていました。酒税しかり、「高級嗜好品(いわゆるぜいたく品)」という認識と世間への消費拡大によって課税対象とされてしまったようです。
(参照:国税庁HP)
プリーストリ先生は科学における理論はともかく、実用面においては相当な発見と恩恵をもたらした好奇心旺盛な実験者としても、科学史の1ページを飾るに相応しい方とも言えます。
ラボアジェ先生だって、彼の試みについて追実験することによって燃焼の化学的プロセスを解明できたと言って良いでしょう。
融通の利かない旧世代の頑固親父だとしても、科学者というにはちょっと違うにしても、化学における新しい時代を拓くきっかけの一つであることには変わりがないと思われます。生涯教育者として貫き、多くの著作が教科書として偉人たちに読まれていたということなどからも、影響力は多大であったことが推察されます。