先日、昭和初期の高等女学校向けの物理教科書をご紹介したところでありますが。
数式を省こうとする作りに、やはり現代のものとの違和感があり、こちらも併せて読んでみようかと。

昭和十二年の『日本女子新教育学』です。
こちらも高等女学校向けに書かれたものでして、『日本女子としての生活の心得』といった感じの内容です。
このなかにある姿をある意味理想として、女子としてどう暮らしていくのかを説いているのであります。

ページをめくると、まず慈母観音の図が一ページまるまると。これぞ、掲載位置からして、目指すイメージとなるわけですな。
………はい。わかりやすい良妻賢母のあり方というのは此処で既に見えてきて、若干萎えたのもお許しくださいませ(笑)
保育、子供の成長の過程が青年期に至るまで記載されております。保育の教科書といったほうがいいんじゃないかしら。遊びであったり、幼児特有の心理や身体の変化とか。母性を育てるという狙いがバシバシきます。
いま、これを全面的に押しだそうものなら、確実に揉めるでしょうね。しかし、その当時のベスト、一般的な幸せの姿としてこうあるのが一番日本においては生きやすかったということなのでしょう。
現代でもそれを目指す方は一定数いらっしゃいますし、その成功体験を現世代にも同じように適用させたいと思われる先輩方も存在します。ただ、それが全てではなく、当時では想像も付かない多様性を帯びたということかもしれません。其々に生き方も選びやすくなった人もあれば、逆にかつてのパターンを選びづらくなった人もいます。
ミドリカワ自身も、佳き妻&佳き母というコンボが完成する確率はほとんどありません。
が、紆余曲折の末にいつしかそうなることを選ぶに至り、それが不幸どころか好きなことをやりながら今の若い相方が来てくれたおかげで却って状況が好転してきたのです。
もし、片隅にあったこの教科書通りの道を選ぼうものなら、焦ってあのまま落ち着いていたら………と思うと、なんか違うだろうし。やはりぶっ壊れていた可能性もあるかもしれません。
この当時に生まれていなかったのも、ある意味救いかもしれません(笑)
この中の内容も参考になるところはありますし、現代でも表記の仕方は変われど教科書に掲載されている内容もあるので、学ぶところはあります。

では、どんな相手が当時は理想だったのか。
右ページの意義は疑問もアリです。
病気の遺伝について、詳しい仕組みよりも病気の有無だけに特化しており、発現の仕方もこれでは偏見を生んでしまいます。男性のY染色体がOになっているのは、時期的なものかと思いたいところですが、1905年にミールワーム(ゴミムシダマシ……穀物につく害虫の幼虫)から見つかったと発表されてますし。関連する遺伝子の仕組みがこの段階で解明されていないとはいえ、結果として仕組みよりも『病気のある人は伴侶として………』などといった話を助長することにもなりかねません。未来の我が子のことを考えるときになることなのは確かなのでしょうが、無用な不安や差別を産み出すという懸念は拭えません。
左ページは男女の美質として、どのような要素に重きを置くかを何故か数値化しています。根拠はよくわかりません(爆)
まあ、健康第一なのは肯定します。身体あっての日常や仕事ですから。
が、こちらでも何となく佳き母、佳き妻としての要素がたんまりと。
まあ、足りない要素を気にしすぎていたらキリがありませんが、今でもこれを嫁入りのアピール材料として格付けするのはやはり絶滅してはおりません。
逆に、男性においても、父性や『品性』『才能によって得られた社会的地位』なんてのがでてきます。家族のためにバリバリ働き、出世していくというロールモデルの片鱗でしょうか。
あ、ときどきそれを差し置いて『女は黙って言うことを聞いて旦那に尽くせ』とか寝言を仰る殿方もいらっしゃいますが、昭和初期風の古式ゆかしいヤマトナデシコをご所望であらば、尽くすに価する働きもしてほしいものです。虚勢を張るのは社会的にやるべきことをやれということも必要かもしれません………すみません、毒吐いてみました(爆)
まあ、そこまでしなくても仕事に勤しみ、あれこれ頑張る女性も増えて強くなったと言われるのでしょうが、いきなり変わったのではなく、社会情勢の変化や多様性が許されたなかでもともと持っていた強さがそこに適応するように発現しただけな気もしないでもないです。
美徳は、それぞれに大切にしているものやルーツがあるので、他者や過去のものをいたずらに否定する気持ちはありません。
もしかしたら、また数十年経ったら別の美徳が現れることもあるでしょう。
変化の流れが急激になっている以上は致し方ないこと。まあ、ミドリカワにはただ窮屈に見えてしまい、今に感謝する材料と図らずもなったわけですが。
そのなかで、『今の自分とは合わないけれど、こんな価値観がある』『今でもこれだけ変わったのだから、今後も変わっていても当然といえる』………そんなふうに意識しながら、いたずらに次の世代の子達に押し付けてしまわないようにしたいもの。差違は認めるけれど、否定をしない………差違についてドゥルーズ哲学の本を読んで頭がこんがらがった身としては痛いのですが、あくまでも事象であり、差違そのものが否定や攻撃材料になって良いとは思えないとも付け加えておきましょう。
また、柔軟に今なら選んでもいいということも。
ただ、選ぶのは本人。選んだことに対する責任と取り方は大なり小なりあることもきちんと伝えるのは忘れてはならないと思うのです。
『こんなはずでは………』と思ってしまうこともありますが、其処までくるに至り、前段階の細かいステップにおいて些細でも選択を繰り返したのは他ならぬ自分自身だからです。