感性の時 | AKERU-STYLE

感性の時

今回はこのテーマで行く。
この題名は、実は萩野浩基という人物の著書の題名だ。
彼は、大学教授を経て、現在は衆議院議員 になっている。

ぼくが大学生のときに、(優)の成績をいただいた
政治学の先生だったのが彼だ。

今日は引用が多くなることをご了承願いたい。
「感性のとき」は18年前の1987年の著書であることも明記しておきたい。
以下に著書から引用する。


以上が18年前の著書であることに驚く。
現在の日本にもそのまま当てはまる言葉だからだ。
自身の18年間を思い浮かべるとなんともいえない
気持ちが込み上げてくる。この問題を18年間前に頭では
理解していながら、これまで自分はただの評論家に過ぎなかったのではなかっただろうかと。

以上

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「小5向けビズ・キッズ」
販売当日を迎えます。
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「感性のとき」

「エピローグーものの本質に迫る」

「知識(ノレッジ)をいくら集めても知識は知識に過ぎず、
質(クオリティ)への変化はなく、知恵にならない。」
《中略》
「知識を売り物にする知識人が歴史の決定、流れの中で、果たして
本当に決定的役割を演じてきたのであろうか。「ペンは剣より強し」とは、
歴史的に誤りである。」
《中略》
「国際活動においてスパイ活動は今も昔も変わらない。企業スパイも
同様である。しかしながら、いくらスパイにより情報を集めても、
それにはおのずから限界がある。情報をもとに決定がなされる
ことは、たしかに一面科学的である。しかし、そこには科学の限界、
科学にはできないことを忘れてしまい、ただの情報収集に変じて、
かえって誤った決定をしていることもある。」
《中略》
「地方の活性化と言われるが、地方のための地方活性化とは
何かを失っている。地方には地方の特質なり、その風土をベースにした
他にない価値を持っている。しかし、単なる量、能率を価値尺度として、
怪しい情報にふりまわされ、目先的政策を行う自治体を見るのは残念でならない。
特色のある自治、、自治こそが生きる道である。まさにサバイバルである。」
《中略》
「量はいくら加えても、質は量的価値しか生まない。決して質的変化は
起こらない。」
《中略》
「大きいことはよいことだとする反省として今、考えてみるべきである。」
《中略》
「怪しい情報、知識は氾濫すると、人間は危険を察知し後込みをはじめる。
つまり、ノーエラー・ノートライである。挑戦しなければ、失敗しない。」
《中略》
「いかに正確な情報としての知識といえども、知識は知識であり、
量の大小である。そこの付随する価値は、せめて、能率的価値である。」
《中略》
「この量と能率に、あまりに日本人は固執しすぎたのではなかろうか。
この歪みが社会病理を生んでいる。そして現代日本社会が垂れ流すインビザブル・
ポルーション(見えない公害)は、その社会の最も弱きものに回されるのである。
子供のいじめを私は、「大人社会の縮図」と定義した。われわれはここで
何らかの転換をはからなければならない瀬戸際に立たされている。量的価値、
能率的価値の限界を知るとき、初めて新たな発想が浮かぶだろう。」
《中略》
「今こそ日本人はこれまでの量的価値、能率的価値から思い切って
発想を転換すべきと思う。」