生きる意味=死ぬ意味ではないか
この一週間は、宮崎県、青森県に出張してきた。
宮崎ではそれこそ亜熱帯を感じさせる風景に感じ入り、青森では
八戸駅から青森駅に向かう車窓から見た雪景色があまりにも
美しく目を奪われた。
これらにも増して、この出張で最も感じ入ったことは、ビジョナリーな
方々との出会いであった。実際に地域の子どもたちの経済体験学習や
ジュニアオーケストラを本気で、しかも謙虚な姿勢で支援する大人の姿には
感銘を受けた。赤の他人の、とくに子どもたちを支援することは、
本当にビジョナリーなことだと再認識できた出張であった。
そこで、飛行機や電車に乗っている時間が長かったこともあり、
「人の一生」について考えてしまった。
人生のプロセスにおいて人はさまざまな喜怒哀楽を経る。
人は生誕し、学校に入学(合格)し、卒業し、仕事をスタート(就職、就社、起業)し、
結婚し、自分の子どもが生まれ親になり、職業上の変遷(異動、転職、等々)があり、
自分の子どもが学校に入学(合格)し、その子どもが自分とまた同様な経緯を辿っている最中に、
親は仕事の第一線から退き、余生といわれる時間を過ごし、その後必ず他界する。
その直後の告別式は、自分の伴侶、兄弟か子どもが喪主を務め執り行う。
世界中の多くの人類はおおよそ上記のプロセスを繰返してきている。
その中で、あらゆる人類に共通することは一つだけ。
「死ぬこと」である。
そこで、考えてしまうのは、人類がこの世における
人生の意味や価値を感じるクライマックスは一体いつ、
どこに存在するのであろうか、という点である。
おそらく、他界する間際であろうと想像している。
「自分が死ぬことに意味を見出す瞬間」ではないか。
人類も他の動植物と同様に「後世に何かを伝えたり、残したり」
する役目が必ずあるので、そのことを人生において全うしたと
感じることができれば、その時、人生のクライマックスが迎えられる
のではないか、と想像している。
さて、そのためには、生きている間に「人は必ず死ぬ」をいうことを
強く認識し、そのいつか必ず来るその日から逆算して自分なりの
死生観を確立し日々生きることが、人生の意味や価値を感じる
クライマックスを迎えるための条件ではないかと感じている。
そのために、ビジョナリーに生きたいと自分は思っている。