スリランカ内戦(1984-5)に学んだこと | AKERU-STYLE

スリランカ内戦(1984-5)に学んだこと

テレビでイラクの内戦の状況を観ていて、ぼくが体験した
20年前のスリランカの内戦を思い出したので記します。
1984年1月~12月、高校1年生のときにAFS交換留学生として内戦中の
スリランカの田舎のラトナプーラ(宝石の町という意味)という場所に
1年間ホームステイしました。
ちなみに、スリランカへの日本人高校生の留学は史上初だったそうです。

何からお話するか迷うのですが、現地で生活をしていた者として、思い出したキー
ワードを並べると、内戦(自爆テロ、置き爆弾、外国人誘拐、等々)、
戒厳令(=外出禁止令)、自然災害、宗教、
文明レベル、人々......でしょうか。

文明レベルで言えば、首都の昭和20年代後半だと在留邦人が
口をそろえて言っていました。
辛かったことは、挙げればきりがないのですが、
毎夜蚊に刺され腫れる上がること、
毎日見ず知らずの人から身体を触られること(日本人は珍しいため)、
ぼくが日本から持参したモノやお金を奪おうとすること
(日本人は大金持ちという強烈なイメージがあったので。
ホストファミリー、学校の先生、警察官を含む)、自動車、自転車、電話、バスタ
ブ、洗濯機が自宅にないこと、水道水が常に茶色なこと、食事メニューが毎日ほぼ同じで
貧弱(カロリー不足?)なこと、日本語と現地語(シンハラ語という)の辞書がまだ存在しなかったので、
日英、英日、英語シンハラ語の3種類の辞書をいつも持ち歩かなくてはならなかったこと、
外出禁止令と大雨による自然災害で1年の約1/4は自宅を出れなかったこと、国内旅行に行って、
ベッドがなくコンクリートの上に雑魚寝すること。
.....きりがありません。
精神的、物理的に本当に辛かったです。

良かったこと、感動したことは、現地人でカトリック教会の神父とホストマザーのみは
ぼくを金持ち日本人としてではなく一人の人間として親交してくれたこと、
たまに行く首都コロンボで文明的消費生活が楽しめたことや英語がどこでも通じたこと、
自爆テロと置き爆弾テロから3度も逃れられたこと(運が良かったです)、などです

1985年に成田空港に到着したときの感動は今でも忘れません。
これが天国というのかもしれないと本気で感じました。
とにかく、何もかもがすばらしく、輝いて見えました。
あえて例えれば、第二次大戦後の毎日必死で生き抜くことがすべてだった
混沌としていた昔の日本→35年後の超文明社会の日本にタイムマシンで
到来したようなものでした。

しかし、高校に復学して、時が経つにつれて、窮屈な気持ちも芽生えてきました。

「なぜこの国の人は細かいことや細かい違いばかり気にして、問題にするのだろう」
「高校生にもなって、なぜこんなに幼稚なんだろう。世の中の問題を話題にして議論しないのだろう」
「なぜ大学受験の成否がその後の人生を決めると大人も含めて信じているのだろう」
「なぜ大人も含めて楽しく、明るく生きようとしないのだろう」。

そんなことを毎日考えて気がふさがっていたとき、救われた感じがした優秀なクラスメートがいました。
現在、占星術師として大活躍している鏡リュウジさん がその人です。
彼とは当時ベストセラーになった「宇宙からの帰還」(立花 隆 著)について語り合いました。
宇宙飛行士が地球に帰還してのインタビューを集めた本でした。元宇宙飛行士の多くが
宣教師になっている事実に興奮したことを今でも覚えています。

結局、1983年~2002年の20年間のスリランカ内戦で約6.5万人が命を落とし、
約100万人が難民化したそうです。当然ぼくの友人も命を落としたり、
外国へ逃れたりしました。

現在のイラクの状況は当時のスリランカの状況と相似しているとも想像しています。
そうだとすれば、食糧不足で餓死するような状況ではないので、現地の普通の人々の
大半が今本当に必要としているのは、日常茶飯のテロ活動を減らしたり、一掃してもらうこ
とより、住宅(インフラ復旧を含む)と毎日の仕事ではないかと想像しています。

今回は20年前のスリランカでの生活を述懐しました。
こんな何不自由ない平和な日本に暮らしていて、感謝しなければいけないと
本当に思います。と同時に、その生活に甘んじることなく、一層挑戦する人生を歩ま
ないとスリランカの内戦で命を落とした人たちに笑われるとも思ってしまいました。