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◆1995.1.17.5.46.52

おはようございます。たけむーです。

この数字、朝から散々やってますので、

皆さまご存知ですよね。


阪神淡路大震災から22年。

そりゃ俺もおっさんになるわな。

当時、大阪市北区に住んでいた私は10歳。

その時間は夢を見ていました。


なんの夢から思い出せないけど、

小さな揺れを感じ、夢現になった。


その頃、

小さな地震が頻繁にあったので、

"またか"と、おさまるのを待ったが、

揺れは徐々に大きくなり、

遠くから地鳴りが近づいて来たかと思うと


ドンッ!!!


っと、強く下から

突き上げる様な揺れの後

家は激しく横に揺れました。


その直後に父が駆けつけ、

「大丈夫か!?」の声で、

同じ部屋で寝ていた妹と同時に飛び起きた


揺れが収まった後、

私はというと押入れの中に隠れ、

不謹慎にも学校が休みになるのかを

ずっと気にしていました。


ーきっと、たいしたことない。


そう信じ込んでいたが、

テレビを付けて驚いた。


阪神高速道路は倒れ、

家屋は倒壊し、火災が拡がり、

街は大混乱であった。


その時のショックな気持ちは、

今でも鮮明に覚えている。


その光景は衝撃だったはずだが、

時が経つにつれ、その出来事を忘れ、

遠くで起きた出来事のように過ごしていた。


それから16年後に東日本大震災の

私は被災地復興ボランティアの活動を行う。


"何かしなければならない。"

そんな使命感に燃え行動を起こしたのは、

Asobo!会という会を立ち上げ、

子どもや若者達のために活動を起こそうと

決起した直後であったことが起因します。


ー被災地の子ども達はどうしているのか。

ー同じ被災地である関西の住民として、

声を上げなければならないのではないか。

ー何をすべきか分からないで

もやもやしている若者達を道標になろう。


そして、同じように決起する若者達に

後押しされて活動を開始しました。


街頭募金活動で約144万円

※翌年20万円、翌々年5万円程度

赤十字を通じて被災地に寄付をし、

その後、被災地を訪れて

子ども達にバルーンアートやしゃぼん玉

フェイスペイント、編み物教室等の行った。

そして、その後は、

神戸新長田のLOVEフェス3.11

西淀川区チャリティーフェスなど、

地元から被災地へ届ける活動に移行します。


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被災地の活動でお世話になった

RQ女性災害支援センター(現ウィメンズアイ)

の、いろんな繋がりを経て、

現在は毎年、宮城県登米市を訪れている。

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活動の中で友人の死に直面し、

使命を得てボランティアとは何ぞや?

という壁にぶつかり、

ボランティアコーディネーションを学び

阪神淡路大震災は、

ボランティア元年と呼ばれていると知り

阪神淡路大震災の事を改めて知りました。


地域福祉という概念を知り、

マクロな視点においての心理学、

その背景にある社会学に興味を持つ

特に"ポストモラトリアム時代の若者達"

と、いう本は私のバイブルです。


そして、その上で漠然とした

私の理想のイメージを

体現するには風船がとても手っ取り早く、

私はバルーンアートにのめり込んだ。


そのことで、沢山の笑顔に出会い、

沢山の人に支えられ、暮らしています。


そして、今、

そんなバルーンアートに対して、

そして、導いてきた先人に対して、

どんな恩返しができるだろうか????


そんな事ばかり考えています。


ちなみに、

"ワーク・ライフ・バランス"

こんな言葉も、

復興対策のワークシェアリングから

変化していった言葉だとご存知ですか。


よく考えれば今の私の人生は、

大震災と切っても切れない関係なんだなぁと

自分でこの記事を書いてびっくりします。


22年前の今日、

沢山の命が奪われました。

しかし、

それ以上に今を生きる人々の人生に、

光を灯し続けたと私はそんな風に思います。


それは、絆という光。


失われた命尊く、

失った者にとっては身を切る程辛いはず。


その傷は私には癒せないけれども、

勝手ながらその人分まで、

自分なりに頑張って光り続けてやろうと

志す若者がここにいるので、

なんらかの形でいつか届けばいいなと

そんな風に思います。


長々と書きましたが、

22年前の今日、

亡くなられた沢山の方々に対し、

心からご冥福をお祈り申し上げます。