2008年の夏、父母と実家に迎えたマリア、そして我が家はクリン美ら琉那3頭に人間3人…
大所帯で蓼科に行き松本城まで足を伸ばした際の写真。
父はこの数年前脳梗塞で半身麻痺となったけれど、こぉして一緒に旅行に行くこともできたのは主人のおかげでもあります。
月曜、仕事ではお弁当のご予約も入っていたので前日に引き続きお弁当の仕事をしそのままランチの営業。
前の日に親が亡くなってるのに、私は笑顔で接客している…そして知り合いのお客様が来れば普通に会話している…
そんな自分を客観的に見て、世の中でも働いている人の中には前日や当日に肉親との別れをしたばかりの人もいるのだろうな…と考えていました。
夕方、私は五十肩でのMRIの予約が2週間前から入っており、病院へ行く前に安置されている母に会ってから行きました。母は間違いなく私の肌より綺麗な肌…
なんで??と、、、。
MRIの予約が遅い時間だったので元々夜はバイトの子に任せて仕事は休む予定にしていました。
母が入院生活となって、母の服はほとんど処分。洋服を着て出かけるような状況になることは絶対ない状態だったから…
私服での生活をする病院にいたこともあったので、脱ぎ着のしやすい服も持っていっていましたが、それもその病院を退院したあと処分。
(私が着るのは絶対に無理な小さなサイズなので、、、)
母にその時が来た時着せるのは牧師のガウンが正装と思って残していたのですが、あくまでもガウンなので改めて見てみると病院で用意された浴衣の上に羽織るのはおかしいと思い、
MRIの帰り、母のラストメイクの際の着替えで着せてもらう服を買いに行きました。
古着というか型落ちして売れずに戻った服を扱うお店へ。
最初はブラウスだけと思ったけれど、母っぽい服を見つけ、そしたらシャツやスカートも買いたくなって一式用意。
母だったらこんな服を着たよね?と思いながら、かつて母が着ていたような服を探し、色味を探し、、、
やっす〜い服で怒られそうだけど、私から母へ最後のプレゼントを選んだ気持ちになりました。
入院してからはこんな風に服を選んでプレゼントすることは出来なかったから、、、。
家に帰ってからやったのは遺影の写真探し。
葬儀はしないので大きな写真を作ることはしないけど、写真たてに入れる写真を、、とのことだったので昔の写真をフォルダから探したけど、、、
なかなか無いものですね、、、。
印刷された写真はどこかにあるはずだけど、引越しもあったのでどこかもはやわからず、、、
母が大好きだった実家先代のクリスを抱いている写真が良いと思い、旅行に一緒に行った時の写真を見ると何枚かあるのにほぼ母の顔は変な方向いてる、、、
一枚、クリスはそっぽを向いているけど、これならと思うものがあり、トリミングをして印刷をしました。
よく、遺影撮影として写真を撮られていらっしゃる方がいるけど、
遺影に使って欲しい写真は終活をする年齢になったら用意しておくべきだなぁと実家です。
そして服装も…。希望は伝えておくべきなのでしょうね。
遺影も昔はその人のみだったものが最近は家族だった犬猫と一緒の写真を使う方も多くなっていると聞きました。
母は元々犬との生活をしていましたが、私が保護活動に関わるようになって、保護犬を迎えてくれました。
母が用事があるときは我が家でお預かりすることも多々ありましたし、
我が家の先代の美らがパテラ手術で入院していた間は近くの実家に我が家は居候させてもらい、クリンも琉那も実家で生活をしばらくしていました。
たくさんのワンコに囲まれての生活は幸せだったと思います。
年齢的に迎えた保護犬の子が最後の子になりましたが、その子が天国組となった時は、本当に落ち込んでしまって外に出る気持ちにもなれなかったようです。
あんずとうずらを迎えるかどうしようと思っていた時も、母に迎えるべきか聞いたら、言葉は出なくても頷いてくれた事を思い出します。
お空に行った子達は虹の橋のたもとで地上での飼い主のことを待っているそうなので、母のことをたくさんの子達が出迎えてくれたと思います。
そして虹の橋を一緒に渡って神様の元に辿り着いたかな?
私涙が出ていません。
なんでだろう?やっぱりそばにいたり介護をしたりしたわけでは無いからなのかな?
まだ実感が無いというのもあります。
そしてもし涙を流すスイッチが入ってしまったら、この現実を現実と受け止めなくてはならないという怖さもあるのかもしれません。
母にコロナ禍で会えなかった寂しさ悔しさはたくさんありますが、
会うことができない環境だった事は、逆にどこかしらに後悔をする事が無いことにもなるので(もっと長い時間面会していたらよかった、、とか、毎日ずっと一緒にいればよかった、、とか)
もしかしたらこのタイミングは母が私に選ぶべきタイミングだったのかとも思います。
そしてお医者様が仰ってたように、中心静脈栄養ができなくなり皮下輸液になって栄養が足りなくなると「だんだん意識がなくなってきて枯れるように、、」となるわけで、その選択肢を選ばなくてはならない状態に母がなっていたら、
日々弱っていく母に対して申し訳ない気持ちしか起きなかったと思います。
そぉ思うと素晴らしい幕引きだったと思うようになりました。
大所帯で蓼科に行き松本城まで足を伸ばした際の写真。
父はこの数年前脳梗塞で半身麻痺となったけれど、こぉして一緒に旅行に行くこともできたのは主人のおかげでもあります。
月曜、仕事ではお弁当のご予約も入っていたので前日に引き続きお弁当の仕事をしそのままランチの営業。
前の日に親が亡くなってるのに、私は笑顔で接客している…そして知り合いのお客様が来れば普通に会話している…
そんな自分を客観的に見て、世の中でも働いている人の中には前日や当日に肉親との別れをしたばかりの人もいるのだろうな…と考えていました。
夕方、私は五十肩でのMRIの予約が2週間前から入っており、病院へ行く前に安置されている母に会ってから行きました。母は間違いなく私の肌より綺麗な肌…
なんで??と、、、。
MRIの予約が遅い時間だったので元々夜はバイトの子に任せて仕事は休む予定にしていました。
母が入院生活となって、母の服はほとんど処分。洋服を着て出かけるような状況になることは絶対ない状態だったから…
私服での生活をする病院にいたこともあったので、脱ぎ着のしやすい服も持っていっていましたが、それもその病院を退院したあと処分。
(私が着るのは絶対に無理な小さなサイズなので、、、)
母にその時が来た時着せるのは牧師のガウンが正装と思って残していたのですが、あくまでもガウンなので改めて見てみると病院で用意された浴衣の上に羽織るのはおかしいと思い、
MRIの帰り、母のラストメイクの際の着替えで着せてもらう服を買いに行きました。
古着というか型落ちして売れずに戻った服を扱うお店へ。
最初はブラウスだけと思ったけれど、母っぽい服を見つけ、そしたらシャツやスカートも買いたくなって一式用意。
母だったらこんな服を着たよね?と思いながら、かつて母が着ていたような服を探し、色味を探し、、、
やっす〜い服で怒られそうだけど、私から母へ最後のプレゼントを選んだ気持ちになりました。
入院してからはこんな風に服を選んでプレゼントすることは出来なかったから、、、。
家に帰ってからやったのは遺影の写真探し。
葬儀はしないので大きな写真を作ることはしないけど、写真たてに入れる写真を、、とのことだったので昔の写真をフォルダから探したけど、、、
なかなか無いものですね、、、。
印刷された写真はどこかにあるはずだけど、引越しもあったのでどこかもはやわからず、、、
母が大好きだった実家先代のクリスを抱いている写真が良いと思い、旅行に一緒に行った時の写真を見ると何枚かあるのにほぼ母の顔は変な方向いてる、、、
一枚、クリスはそっぽを向いているけど、これならと思うものがあり、トリミングをして印刷をしました。
よく、遺影撮影として写真を撮られていらっしゃる方がいるけど、
遺影に使って欲しい写真は終活をする年齢になったら用意しておくべきだなぁと実家です。
そして服装も…。希望は伝えておくべきなのでしょうね。
遺影も昔はその人のみだったものが最近は家族だった犬猫と一緒の写真を使う方も多くなっていると聞きました。
母は元々犬との生活をしていましたが、私が保護活動に関わるようになって、保護犬を迎えてくれました。
母が用事があるときは我が家でお預かりすることも多々ありましたし、
我が家の先代の美らがパテラ手術で入院していた間は近くの実家に我が家は居候させてもらい、クリンも琉那も実家で生活をしばらくしていました。
たくさんのワンコに囲まれての生活は幸せだったと思います。
年齢的に迎えた保護犬の子が最後の子になりましたが、その子が天国組となった時は、本当に落ち込んでしまって外に出る気持ちにもなれなかったようです。
あんずとうずらを迎えるかどうしようと思っていた時も、母に迎えるべきか聞いたら、言葉は出なくても頷いてくれた事を思い出します。
お空に行った子達は虹の橋のたもとで地上での飼い主のことを待っているそうなので、母のことをたくさんの子達が出迎えてくれたと思います。
そして虹の橋を一緒に渡って神様の元に辿り着いたかな?
私涙が出ていません。
なんでだろう?やっぱりそばにいたり介護をしたりしたわけでは無いからなのかな?
まだ実感が無いというのもあります。
そしてもし涙を流すスイッチが入ってしまったら、この現実を現実と受け止めなくてはならないという怖さもあるのかもしれません。
母にコロナ禍で会えなかった寂しさ悔しさはたくさんありますが、
会うことができない環境だった事は、逆にどこかしらに後悔をする事が無いことにもなるので(もっと長い時間面会していたらよかった、、とか、毎日ずっと一緒にいればよかった、、とか)
もしかしたらこのタイミングは母が私に選ぶべきタイミングだったのかとも思います。
そしてお医者様が仰ってたように、中心静脈栄養ができなくなり皮下輸液になって栄養が足りなくなると「だんだん意識がなくなってきて枯れるように、、」となるわけで、その選択肢を選ばなくてはならない状態に母がなっていたら、
日々弱っていく母に対して申し訳ない気持ちしか起きなかったと思います。
そぉ思うと素晴らしい幕引きだったと思うようになりました。