子供の頃から母親に虐待されて小学校もロクロク通わず、思春期になってからは売春を強要され覚せい剤中毒になってしまった杏(河合優実)が警察に身柄拘束される。取り調べを担当した多々羅刑事(佐藤二朗)は不起訴になった杏を薬物更生者の自助グループ「サルベージ赤羽」へ連れて行き、杏の希望を聞いて老人介護施設への仕事を斡旋。だがそこは労働条件が悪過ぎた。そこへ更生施設の取材を続けている週刊誌記者・桐野(稲垣吾郎)が助け船を出す…。

 

 1920年の新型コロナウィルス禍の真っ只中。とある新聞に載った記事に着想を得た入江悠監督(『SR サイタマのラッパー』シリーズ、『太陽』『22年目の告白-私が殺人犯です』など)が自ら脚本を書いて映画化。想像を絶する生活を送って来たヒロインが、警察の取り調べをきっかけに知り合った人たちの善意で更生の道を歩み出す…。19年に映画デビューし22年に9本もの作品に出演して注目され、某TVドラマの出演で一気にブレイクした河合優実が主演を務めて『さがす』(22)でコメディ俳優以外の新境地を見せた佐藤二朗、近年は映画出演に意欲的になっている稲垣吾郎、濱口竜介作品の常連だった河井青葉、広岡由里子などが共演。

 

 新たな老人介護施設で働く事になった杏。多々羅と桐野の世話で地獄の様な家族から抜け出し無償で提供された住居に引っ越し、在日外人などに混じって夜間学校に通い国語の勉強をする。孤立無援の人生を送って来た杏にとって想像だにできなかった生活であった。金ヅルが無くなった母親が介護施設に押しかけて暴れ、責任を感じ杏は仕事を辞めようとするが、周囲の人が辞めないでいいと言ってくれた。サルベージ赤羽でも積極的に同じ薬物更生者の人との話し合いに参加する様になり、そこで多々羅がやっているヨガ教室にも加わる。全てが好転しているかに思えた杏だったが、20年新型コロナウイルス禍が日本列島に襲い掛かり…。

 

 冒頭と終盤近くでヒロインが早朝の同じ街並みをフラフラ歩いているという循環的ストーリーが秀逸。前半周囲の人々の助けもありトントン拍子で更生の道を歩み出すヒロイン。口調は荒っぽいが底なしの善意でヒロインに接する刑事のいい人ぶりが凄いというか、あまりにいい人過ぎないかとやや疑問に感じていたら、それには裏があったという衝撃の事実から物語は一気に暗転。新型コロナウイルス禍の、異常なまでの感染防止の為の方針って、今にして思えば何だったんだと俺も言いたい。再び孤立無援を強いられたヒロインがひょんな事から再び希望を見出す展開も脚本的に良かった。棒な稲垣の演技が難だが、それを差し引いても傑作。

 

作品評価★★★★

(休日と言えど上映館には100人近い観客が。河合優実のリアル人気って凄いね。観客動員数だけで言えば永野芽都の33倍人気があるという事になるのだが…。ヒロインを再び絶望のどん底に追いやったのは政府のコロナ対策だったいう設定も、いいトコ突いていると思った)

 

 付録コラム~「初めにインティマシ―・コーデイネーターありき」ってのも違うだろう

 

 先週公開されたとある作品で「インティマシー・コーディネーター」が導入されなかった事に対して、その作品の監督に批判が集中している。作品自体が性をテーマにした物らしく、インティマシー・コーディネーターの起用は主演女優の希望だったが、監督は最終的にそれを拒否。押し切られた形の女優はいまだにその事に納得していないらしく、公に向けて発言した事で今回の騒ぎになった。ただそれによって主演女優と監督との間に決定的な亀裂が生じた訳でもなく、初日公開の舞台挨拶には主演女優も監督と共に出席したという。

 まず前提として、女優との意見が一致しないままの撮影になった事の原因はやっぱり監督にあると思うし、結果的に作品の興行的な部分に影響を与える事になる訳だから、監督の責任は重大。ただ監督の「撮影中に外部の人に介入して欲しくなかった」という発言には、頷ける部分はある。

「インティマシー・コーディネーター」とは、性的描写の撮影の際に監督と俳優の間に入って身体的・精神的にサポートする人の事を指す。例のハリウッド大物プロデューサーの性加害事件をきっかけに、米国では撮影現場での女優に対するセクハラ被害を防ぐべく、事前に性的なシーンをどの程度まで演出するかを、監督と協議する役割を担う人の存在がクローズアップされた。でも俺の推測によると、ハリウッドでは随分前から似た様な立場の人がいたと思うのだが…。

 そういう制度自体には俺も反対はしない。ただインティマシー・コーディネーターの役割は言わば「セクハラの番人」であって、作品の出来云々とは別の次元の人。そんな「外部」から作品の演出に介入してくる人に対し、監督があんまりいい感情を持たないのは当然だとは思う。もし大島渚や今村昌平がに20年ぐらい遅く生まれて令和の時代に「旬の監督」として活動していたら、自分の監督作品にインティマシー・コーディネーターの導入を認めただろうか?

 つまり俺が言いたいのは「初めからインティマシー・コーディネーターありき」って考えは違うだろうって事。事前に監督と女優がトコトン話し合って合意に達すれば、そもそもそういう人を雇う必要はない。それが作品にとっては一番望ましいと思うのだ。勿論女優がインティマシー・コーディネーターに委ねるのも当然の権利ではある。ただインティマシー・コーディネーター導入を絶対化(義務化)してしまうと、作品的には障害になる事は念頭に入れておいた方がいいだろう。

 俺が実質的にインティマシー・コーディネーターが導入されたと思うゼロ年代以降の、ハリウッド映画の「濡れ場シーン」は酷い物になっている。編集も完全にルーティン化しており、観ていて情感など全く感じられない。こんなんなら最初からそんなシーン自体カットした方がマシだと思えるくらい。

 日本映画界に「高校生映画」が氾濫しているのも、考えてみれば性的なシーンが不要だから作るのも楽…って事情があるからではないかな? こうして日本映画は「恋愛映画」に関してはどんどんお子様ランチ化していくのか。嗚呼…。