1950年に中国移民の両親の間に生まれたメイ・パンは生粋のNY育ち。古い考えの両親から独立する為に職を探している内に『ザ・ビートルズ』関連レコード会社に行き当たり、ロック大好きだった事もあり就職。ジョン・レノン&ヨーコ・オノの作る前衛映画の製作を手伝ったりしている内にヨーコに気に入られ、二人の個人秘書に抜擢。1973年の或る日ヨーコからこのままではジョンと別れる事になる、取り敢えずジョンと共同生活をしてくれないかと言われ仰天。即断ったが…。

 

 08年にメイ・パン名義で『インスタント・カーマ』というモノクロの写真集が米国で出版され、日本でも約10年遅れて出版。ジョン・レノンの所謂「失われた週末」の時期に同棲していたメイ・パンがプライヴェートで撮った写真が公開されており、添えられた文章には「ジョンがポールとセッションした」という驚きの一節も。本作はその写真集と、それ以前に出版されたメイ・パンの回想録を具象化するという意味で製作されたドキュメント。メイ・パン自身のナレーションと共に「失われた週末」がどの様な物だったかを証拠付けるお蔵出し的な写真や映像、肉声などをど~んと公開している。当時ジョンと付き合いを深めていたミュージシャンたちの顔も多く登場。

 どうしていいか分からなかったメイ・パン。だがジョンは以前から彼女に好意を抱いていた事もあり、直ぐに恋人関係になった。アルバム『マインド・ゲームス』のレコーディングを終えたジョンは、新たな仕事に集中する為ヨーコの住まうNYを離れロスに移住する事に。ロスにはジョンの「悪友」たちが多く住んでおり、ジョンは毎夜ハメを外しはしご酒の毎日。それもあり肝心のレコーディング仕事の方は難航。だが有意義な事もあった。ヨーコによって会う事を妨害されていたジョンと息子ジュリアンとの数年ぶりの再会が、メイ・パンの仲介によって実現。だがその事を知ったヨーコの心中は穏やかではなく、彼女はポールに様子を見てきてくれと頼んで…。

 

 まず最初に断っておかねばならないのは、本作はあくまでメイ・パンの証言を基に製作されており、証言の全てが事実であるかどうかは怪しい。でも写真や映像を見る限り「失われた週末」の期間にジョンがメイ・パンに首たっけだった事は動かしがたい事実だ。ジョンとヨーコの関係は「子と母」みたいな物と俺は常々思っていたが、ヨーコがメイ・パンとの同居を勧めた理由もそう考えるとあながち不思議ではない。ヨーコから解放されたジョンは一気に不良化してしまったが、時が経てばやはり母親が一番と思うはず(マザコンだから?)との考えだろう。「平和のメッセンジャーのジョン」より「屁もする糞もするジョン」が魅力的と考える人には傑作かな。

 

作品評価★★★★

(メイ・パンの証言の信用度は70%ぐらいだろうか。でも遅すぎた反抗期を迎えたジョンの姿は、腕白坊主がそのまんま大人になったみたいでいいじゃない? 現在のメイ・パンとジュリアンが本物の親子みたいに熱く抱擁するラストシーンも、感無量って感じが出てて良かった)

 

付録コラム~そもそもヨーコ・オノって何者と思ってる人も多そうだ

 日本の野外ロックフェスティバルの雛形になった、1974年8月に福島県郡山市で開催された『ワンステップフェスティバル』。当時活躍していた日本の主だるロックバンドが殆ど出演したが、故・PANTA率いる『頭脳警察』は出演オファーを断った。その理由は「トリで出演するヨーコ・オノが嫌いだから」(PANTA・談)。一般人はともかく、日本ミュージシャンではっきりとヨーコ・オノを嫌いと言ったのはPANTAぐらいではないかな?

 俺が学生時代愛読していた音楽雑誌『ミュージック・ライフ』では、ヨーコ・オノは常に類まれなる才能を持つ芸術家(兼音楽家)とされており、リンダ・マッカートニーは露骨に比較対象されて「ヨーコとの才能は雲泥の差」とか書かれて可哀想だった。確かにリンダは『ウィングス』加入前まで楽器を弾いた事もない様な素人だったけど、ヨーコ・オノだって俺の知る限りは、ライヴステージで奇声を上げるだけレベルの才能なんだから、音楽家としては雲泥と言われる程の差はないと思う。そもそもオノ・ヨーコはジョンと出会うまではどんな人間だったのか、当時は知る由もなかった。

 実はジョンと1933年生まれのヨーコ・オノは共に再婚で、ヨーコには2回の結婚歴があった。最初の夫は現代音楽家の一柳慧。60年代の現代音楽家としては武満徹と並ぶ程高名で様々なジャンルの人と交流があり、武満徹と同じく吉田喜重作品を始めとして、映画音楽も多く手掛けた鬼才であった。そんな一柳とオノ・ヨーコの結婚生活がどのの様な物であったか(一柳は22年に逝去)、今となっては想像もつかないのであるが。

 一柳と結婚した59年前後からオノ・ヨーコはNYで前衛芸術家として活動。芸術家と言っても絵を描いたり写真を撮ったりする訳ではない。今で言いう所の「パフォーマンス」に近い物で、その活動表現の一つとして今回の作品でもチラッと紹介された映画製作もあった。でもジョンとヨーコがキャメラに背を向けておもむろにズボンをずり降ろし生尻を見せるパフォーマンスを何と言葉で表現していいのか、困ってしまうのだ。そんな風に一般的には理解し難い表現活動で、セレブな家の出だから実家からの援助は多少はあったかもしれないが、海外で生活していくのは大変だったも言われている。そんな彼女にとって、ロンドンの個展で「世界で一番有名なポップグループのメンバー」が興味を示し彼女に接近してくれたのは、言い方はアレだけど「渡りに舟」だったとは思う。そして彼女は「世界で一番有名な日本人女性」になったのだ。

 今回の映画を観てふと思ったのだが「ジョン・レノンの失われた週末」のあらましはこうしてほぼ公になっているけど、75年1月にジョンとヨリを戻しヨーコの出産を経て80年の『ダブル・ファンタジー』レコーディングの間までの「ジョン・レノンの失われた主夫生活」については、殆ど公になっていないのが不思議。判っているのは「かわいい子供には旅をさせよ」の格言通り、ヨーコに言われてジョンが南アフリカまで一人旅に出たのと、二人で度々日本に里帰りしていた…というぐらいだけ。昔読んだ暴露本によると、その間ジョンは不動産売買などの財テクに血眼になっていて世界的ミュージシャンの面影など全く無く、ヨーコもまた経理担当としてビジネスに執心していたとされていたが…。

 俺もPANTA師匠と同じくヨーコ・オノに「好意的」ではないし、彼女の『ダブル・ファンタジー』収録曲以外の曲は、今後も聴く事はないだろう(73年に発売されたシングル『女性上位ばんざい!』は何となく聴いてしまったけど)。でも結局の所メイ・パンと深い仲になったとはいえ、ジョン・レノンが世界で一番愛した愛した女がやっぱりヨーコ・オノなのは事実。もうお歳(90歳)なのだし、平穏な老後生活を送って欲しい物ではある。