1958年6月7日ミネソタ州ミネアポリスにてジャズミュージシャンを父に生まれたプリンス・リチャード・ネルソンは、幼い頃から父に影響を受け音楽に興味を持つ。その頃全米各地で巻き起こった公民権運動の嵐は、黒人人口が比較的少ないミネアポリスにも吹き荒れた。それを受けプリンスが住んでいたノース・ミネアポリスに、黒人の子供達がスポーツや音楽を楽しみ、大人達から専門的なレッスンが受けられる『ザ・ウェイ』というコミュニティー・センターがオープン…。

 

 2016年4月亡くなった不世出の天才ミュージシャン、プリンス。その知られざる一面を描いたドキュメンタリー。プリンスの楽曲の著作権や肖像権を持つ『プリンス財団』未公認の製作故完成しても幾つかトラブルがあり、本来オクラ入りになってもおかしくない所を、多くの人々の尽力を得て今回の日本上映が決定。少年時代から晩年までのプリンスを良く知る関係者に熱狂的なファンの肉声も加え、チャカ・カーンや3ピースバンド『ZZトップ』のギタリスト、ビリー・ギボンズ、ラップグループ『パブリック・エナミ―』のチャックDといった有名ミュージシャンたちもプリンスについて証言。配給は変てこりんなカルト映画で一世風靡した『アルバトラス・フィルム』。

『ザ・ウェイ』で正式な音楽教育を受けた少年時代のプリンスは直ぐに頭角を現し、精力的にバンド活動をこなしていった。19歳になる頃には複数のレコード会社からスカウトの手が伸びる程の音楽業界注目のミュージシャンに成長、『ワーナーブラザーズ』と巨額の契約金とセルフプロデュースの権利を得て契約。80年代にはアルバムも売れて全米の人気者となり、映画『パープル・レイン』主演とサントラアルバムで世界的な名声を得る。そういう存在になってもプリンスは地元を離れる事なく、ミネアポリスに巨大なプライヴェートスタジオ兼住居の『ペイズリー・パーク』を建設。ツアーやTV出演などの予定が無い時は籠って楽曲制作に明け暮れ…。

 

 プリンス財団未公認故プリンスの音源は殆ど使われず写真の類いもあまり観た事のない物を使用(それはそれで貴重だが)。本作の証言で貴重だったのは、デビュー直前のプリンスと会ったチャカ・カーン(スライ・ストーンからチャカ・カーンに電話があり指定されたスタジオに行ったら、スライの声を真似て呼び出したプリンスがいた)、そして熱狂的なファンとの、スーパースターには普通有り得ない交流(ネットで連絡してペイズリー・パークで秘密裏に行うライヴに招待)。こういう「気さくなプリンス像」は確かに今まで伝えられなかった。その一方で「プリンスは実はいい人」という結論ありきの構成は、「映画」としてはダイナミズムを欠く印象もあった。

 

作品評価★★★

(プリンス程のミュージシャンの軌跡を語るに「68分」の上映時間は短か過ぎた。あと「光」と「影」は人間の生涯にとって表裏一体な物だと考えると、「影」の部分の突込みが不足なのが気になる。そういう不満は残ったが、プリンスの事をもっと知りたいという人には悪くない作品)

 

付録コラム~『ブルー・ライト・ヨコハマ』プレイバック

『週刊サンデー毎日』に作詞家・なかにし礼の息子(音楽プロデューサーだそう)による『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌世界に関連付けての、横浜名所巡りみたいな記事が。でも観光記事ぽい内容であんまり面白くなかった(涙)。ただお陰で歌謡曲の名曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』を暫し脳内プレイバックする事となった。

 

 この曲が発売された68年12月には、既にGSブームはかなり下火になっており、俺もGSソングにやや飽きがきていた頃であった。そんな時にTVで『ブルー・ライト・ヨコハマ』を聴いて「いいな」と思った。歌謡曲を聴いてそう思ったのは初めてだったのではないか。まあ洟垂れガキだからしょうがないんだが、それまでは歌謡曲やGSソングには、流行している曲以上の興味を持っているとは言えなかった。

 何故『ブルー・ライト・ヨコハマ』がそんなに良かったのか…と顧みて考えてみると、多分いしだあゆみ独特の鼻にかかった様な、それでいてクールで抑制が効いた唱法が好きだったんだと思う。例えば俺は感情過多で芝居ががった美空ひばりの『悲しい酒』が嫌いだ(美空の他の曲はそんなに嫌いではないけど)。それに比べるといしだあゆみの唱法には切ない恋心を唄いながらも何処か醒めている感でもあり、大人目線的に言えば、それがこの曲の魅力ではないかなと分析したりもするのだ。

 「ヨコハマ」という土地柄については、青江三奈の『伊勢佐木町ブルース』がそうである様に、ガキの俺には全く土地勘がなかったが、後に横浜に行っても『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌詞とフィットする風景あまりなかった様に思えた(それが件の記事への違和感なのかな)。作詞(橋本淳)作曲(筒美京平)だって必ずしも「横浜」に固執して作ったとは思えないし、『ブルー・ライト・ヨコハマ』の「ヨコハマ」は現実の「横浜」とは別の架空都市と規定した方が良さそうだ。まあちゃんとご当地ソング扱いはされてはいるけど。

 そんな風にガキンチョの俺をも魅了したしいだあゆみの事を、俺はこの曲で初めて認識したんだと思う。翌69年大晦日の紅白歌合戦でいしだあゆみはこの曲を唄って初出場。フィナーレでは感激のあまり涙を流していた姿も記憶に残っている。ただ本職はあくまでも「女優」であり、70年代末期まで定期的にシングルを発売していたものの、歌手としての絶頂期は70年代の初っ端まで。歌謡曲が時代を物語る的な勢いを失っていったのと同時に、いしだあゆみも徐々に「女優」としてしか呼ばれなくなっていった印象もある。

『ブルー・ライト・ヨコハマ』のヒットから約40年後。映画『ホームレス中学生』でガリガリに痩せたいしだあゆみを見て心配になった。元々細身だったとはいえその痩せ方は尋常ではなく、何処か体が悪いのでは…と心配になったが、病気をしているという情報もない代わりに近況も流れなくなり、今いしだあゆみは人知れず女優引退してしまったと思われる。三田佳子みたいに老骨に鞭打って女優続けるのも何だし、それはそれでいい選択だろう。