丸の内にある東京座は、今回の三村珠子(轟由起子)、淡島蘭子(笠置シヅ子)、橘薫合同公演を最後に木材成金の山岡に買われレジャービルに改装されるという情報を、新聞の演劇担当記者・早坂(池部良)は掴んでいた。公演前の東京座では100万円宝くじの抽選会が。東京座従業員みよ子は、祖父で電気係の神田老人(藤原釜足)からもらったくじが100万円に当選したので仰天。くじを祖父に返そうとしたが神田も受け取らず、どうしたものかと二人して途方に暮れ…。

 

 笠置シヅ子出演映画特集の第二弾。レビュー用の劇場を舞台に一昼夜の出来事を描くヒューマンドラマな東宝作品。黒澤明の師匠であり、戦前の高峰秀子の代表作『綴方教室』(38)『馬』(41)を撮った事でも知られる山本嘉次郎が監督務めるだけでなく、脚本及びプロデューサーも兼任。戦争中は招集されて南方戦線で闘い、帰国後高峰秀子に促されて映画俳優復帰を決めた池部良が主演。宝塚歌劇団出身で黒澤のデビュー作『姿三四郎』でヒロインに扮した轟由起子、同じく黒澤映画の常連として知られる藤原釜足、東宝ニューフェィス一期生で不遇の生涯を余儀なくされた若山セツ子、進藤英太郎らの共演。48年の正月映画として公開。

 

 早坂は宝くじの当選者が従業員の中にいると聞かされ、挙動不審な神田が怪しいと睨むが、神田は自分ではないと否認。だか預かった宝くじを失くしてしまい、みよ子からそれで良かったのだと慰められる。その後早坂は楽屋に珠子を訪ねると、珠子は何れ東京座は復活すると信じており、早坂が山岡に騙されていると言っても頑として認めない。公演が始まったが暴風雨の為に東京座は停電に。電車もストップし観客は翌朝まで劇場内に閉じ込められる。一種パニック状態に陥る観客たち。その間も早坂は珠子に言い聞かせる。東京座を訪れた山岡が早坂の暴行を働くのを見て、漸く珠子は目が覚めて山岡に絶縁を宣言。電気も復旧し…。

 

 高額賞金の宝くじに当たった事で動揺する祖父と孫娘、レビューに人生を賭けるあげく騙されそうになっている歌手を救う正義感溢れる新聞記者…という二つのストーリーが描かれる。100万円なんていらないと心から思ってる本作の祖父と孫娘をもし見たら、一平元通訳は何を感じるのか…。お人好しな歌手に扮する轟は笠置と同じく関西出身という設定で珍しい関西弁の台詞が聞ける。パニック状態になった観客(闇屋が売店の食べ物を買い占め高価で売ろうとしたり)を励ます様に轟&笠置が舞台で唄い踊り、それを観る観客の顔が笑顔に変わっていく。映画、レビューなどのエンタメが戦後直後の庶民に与えた希望を象徴する様なシーンだ。

 

作品評価★★★

(当然ながらレビューシーンも本作の見せ場となっており、笠置がレオタード姿の大勢の女性ダンサーをバックに従え、代表曲の『東京ブギウギ』などを歌唱。轟由起子も元宝塚だけにステージングは堂々たる物であった。序に進藤英太郎の悪党演技も既にハマり過ぎている)

 

付録コラム~高橋和巳『悲の器』の映画化

 

『サンデー毎日』最新号で批評家兼映画プロデューサーである小野沢捻彦が「50年に渡って高橋和巳の『悲の器』の映画化を考えている」と書いている。凄い拘りと執念には驚くばかりだ。

 たまたま俺は二十歳にもならない時期に『悲の器』の文庫本を買い求めて読んだ。元来の活字中毒な故に何か読みたくて適当に目についただけで買った…というしかないが、多分高橋和巳の名前だけは知っていたのだと思う。黒木和雄のATG作品『日本の悪霊』(70)が高橋和巳の同名小説の映画化だったから。だが高橋和巳がどういう小説家なのかなど知る由もなかった。

『悲の器』は法曹界の超エリートである主人公が、再婚を目前に元家政婦から性被害を裁判所に訴えられスキャンダルとなる事でその地位を失う窮地に立たされ、鬱化していく様を綴った物であり、主人公を通して高橋は戦後に特権的な立場を得た知識階級の緩やかな崩壊を象徴させたかったのだろうか。尤も二十歳前の低能男の俺にはまだそんな理屈など理解できるはずがなく、やに陰気な小説だなあ…と思った程度だった。

 ただ鬱化した主人公がたまたま入った映画館で凡庸その物なお涙頂戴ストーリーの映画を観て、思っても無い程感情移入して涙を流してしまった…という下りは鮮明に覚えている。現実に厳しい目に遭ってる時だと、どんな凡作でもいい映画に思えるモンなんかな…と考えてしまった。

 実は俺がまだ金沢に在住していた81年に小野沢プロデュース、『女囚さそり』シリーズの伊藤俊也の脚本でクランク・インという映画ニュースが流れた(監督は伊藤とは別人)。確か主演には緒形拳の名が挙がっていた様に記憶しているが…。ネットオークションにその時の企画書段階の台本が出品されていたが、既に落札済み。小野沢と付き合いがあった知人S氏が助監督をやらないかと誘われており、仕事を辞めてやるかどうか悩んだみたいだが、結局断ったらしい。その後クランク・インがお流れになり辞めないで良かった…という話に落ち着いた。

 実際の所今『悲の器』が映画化されたとしても観客に受け入れられるか、正直疑問ではある。何かこの手の「純文学の映画化」みたいな事が時代錯誤ぽくなってしまったきらいは、やっぱり否めないね。