1903年。アイルランドから移民してきたマーティ・マー(タイロン・パワー)は、陸軍士官学校ウェスト・ポイントの給仕の職を得るが、ヘマばかりしてクビになったので志願して勤務隊に配属、体育主任キーラー大尉の手伝いを。そのキーラ家に同郷の娘メアリー(モーニン・オハラ)が女中として住み込み、マーティ―は一目惚れするが何を話しかけてもメアリーは返してくれない。てっきり袖にされたと思ったマーティーだが、喋らないのは大尉の指示でホントは両想いだった…。

 

 西部劇の巨匠として知られるジョン・フォ―ドだが、自身のルーツである「アイリッシュ」を内容に持ち込んだ作品も幾つかある。実話の映画化である本作もその一つ。長らく陸軍士官学校の教官を務めたマーティー・モーの自伝の映画化。元々は腰掛の積りだった彼の半世紀に渡る体育助教生活を描く。主演のタイロン・パワーも実はアイルランド移民の血を引く。戦前は『血と砂』(41)などで二枚目俳優として活躍。戦後は遺作『情婦』(57)などで演技派的なアプローチも見せた。相手役のモーリン・オハラもまたアイルランド出身で『わが谷は緑なりき』(41)、『リオ・グランデの砦』(50)『静かなる男』(52)といった他のジョン・フォ―ド作品にも出演した。

 

 マーティは故郷へ帰るつもりだったが、メアリーは夫に内緒でマーティーの父(と弟を米国に呼び、父は息子夫婦と同居。助教仕事も何れ辞めようと考えていたが、候補生レッド・サンドストロムの面倒を何くれと見て、女教師キティ(ベッツイ―・パーマー)との恋のキューピット役を務める内、そういう気持ちも薄れていった。やがてメアリーが妊娠、待望の男の子を産むが直ぐに亡くなってしまい、この時は本気で教官学校を辞めようと思ったが、毅然とここに残ると言った父の態度に翻意した。沢山の可愛い教え子が巣立っていった。キティと結婚したレッドも優秀な成績で卒業し第一次世界大戦に従軍したが戦死。キティは幼い子を抱え未亡人に…。

 

 勤続50年目に辞職を促された主人公の回想という形で物語が進行。何もやらせても使い物にならなかった彼が辛うじて拾われた形で士官学校勤務を続ける内に、候補生に慕われる名物教官と化していく。三枚目的な側面もあるタイロン・パワーのユーモラスさを携えた演技に加え、他の登場人物のキャラクターもくっきり描かれている。子供が産めなくなってしまった妻は候補生たちを可愛がり、取り分け遺児となったレッド・ジュニアには実の息子の様に成長をヘルプ。主人公の父はいい歳をして候補生の試験を受けたりする恍けた人物に造型され、かなり地味な企画を笑いあり涙ありの娯楽映画に仕立てる手腕は、ジョン・フォ―ドならではだな。

 

作品評価★★★★

(好戦的な内容が気にならないでもないけど、タイロン・パワー&モーリン・オハラの好演は捨て難く、その他の登場人物の設定も的確。ストーリーは真珠湾攻撃から太平洋戦争期までに及ぶが、タイロン・パワーは実際に従軍し戦後は進駐軍として来日したとの噂もあったとか)

 

付録コラム~元祖エリカ様? 原田美枝子

 先日のコラムで触れたロック・ミュージカル劇団『ミスター・スリム・カンパニー』関連の酒場談義動画で興味深いエピソードがあった。地道な公演を重ねたミスター・スリム・カンパニーが劇団としては大箱な六本木『俳優座劇場』公演を敢行した際、関係者繋がりで招待された当時20歳ぐらいの原田美枝子が観劇。終了後感想を聞かれた原田は一言「素人」と斬って捨てた。あまりにはっきりとした物言いに、出演者たちも唖然とするしかなかったという。

 一般的な考えから言うと、本心はどうあれまだ20歳ソコソコの原田が幾ら小劇団レベルとはいえ、年齢も芸歴も上の人たちにかける言葉としては非礼千万と言うしかないのだが、その一方この若さで思った事を率直に言えた彼女に爽快感を感じる気持ちも俺にはある。

 当時原田美枝子は既に日本映画界のトップ女優の位置にいた。74年に日活児童映画『ともだち』(監督・澤田幸弘)でスクリーンデビュー。次作『恋は緑の風の中』(74年 監督・家城巳代治)で若干15歳にてヒロインを務めヌードを披露(今では御法度だが)。以降様々な作品で脇役ながらも印象的な演技を見せ、76年には『大地の子守唄』(監督・増村保造)『青春の殺人者』(監督・長谷川和彦)の2本でキネマ旬報ベスト・テン主演女優賞をゲット。僅か18歳にして早くも映画女優としてはトップに上り詰めてしまったのだ。

 こういう早熟系女優の場合燃え尽き症候群になって後が続かないケースがしばしばあるけれど、原田美枝子の場合はそれに当てはまらない。翌年は出演作品のジャンルを問わず主役を盛り立てる脇役でも厭わず出演。スター女優が回避したがるやくざ映画『その後の仁義なき戦い』(79)にもヒロインとして出演しヌードを披露した。プロの映画現場で充分に揉まれてきたその経歴からすれば20歳でも、小劇団の公演が素人臭く見えたのは致し方無しか。

 ヌード=体当たり演技と捉えるのはオジン臭い発想でしかないが、映画界ではそれが高く評価されたのは事実で、70年代から80年代にかけては若手監督より「世界のクロサワ」を始めとするベテラン監督に重宝がられ、その手の作品に多く出演。勝新太郎とはTVドラマ『新・座頭市』で共演した事で懇意になり、勝の撮影によるヌード写真集を出版。

 80年代には製作&脚本&主演という三役をやったり、小説を書いたりして製作側に立つアプローチも見受けられたが、これは上手くいかず撤退。石橋凌との結婚もあっが映画出演ペースをそれ程落とす事も無く、90年代からは主に母親役を多く演じる様に役柄をシフトしていき『愛を乞う人』(98)、『ぼくたちの家族』(14)などの代表作を残している。

 原田と同じ70年代世代の女優としては、年上ながら桃井かおり、秋吉久美子の存在があるが、同じ70年代でも前半に登場した桃井&秋吉の浮遊感や奔放なイメージは、原田美枝子には皆無。周囲からの軋轢にもめげぬ芯の強い女像を多くの作品で演じてきた。そう考えると同じ70年代でも前半と後半は全く別の時代だったなあ…とつくづく思う。桃井&秋吉、はたまた同年代の大竹しのぶの様な「問題行動」もせず(夫のそれには悩まされたかもしれないけど)、若い頃は鼻っ柱が強かったかもしれないがさしたる壁にブチ当たる事も無く、女優キャリアを着々と重ねてきた原田美枝子は、日本の女優としては奇跡的な存在でもある。

 その割には若手女優から「将来の目標」として大竹しのぶの名は出ても、原田美枝子の名前を挙げる人がゼロなのが?ちょっと残念である。人気お笑い芸人と浮名を流したりバラエティ番組に出演したりしないと、憧れの人にはなれない時代なのか…。