米国の俳優で俺が出演作を観たいと素直に思える俳優の一人がポール・ニューマンであった。最初に観た出演作はジョージ・ロイ・ヒルが監督したアメリカン・ニューシネマの有名作『明日に向かって撃て!』(69)。次に観たのは同じくジョージ・ロイ・ヒルが監督したスポーツ物コメディ『スラップ・ショット』(77)。酔いどれ弁護士に扮した『評決』(82)、『ハスラー』(61)から25年ぶりの続編となった『ハスラー2』(86)を封切で観て、それから過去の出演作を遡って観ていった。

 ポール・ニューマンの魅力は何かと問われれば、どんな役柄を演じても抑制が効いているというか、ロバート・デ・ニーロとかアル・パチーノ的な憑依型の俳優とは真逆な、冷静さを失わない演技に品の良さを感じたから。そんなポール・ニューマンがどんな遍歴を経て名優と呼ばれる地位に就いたのかについては、実は今まで良く知らなかった。

 40年前ぐらいから、ポール・ニューマンは自叙伝を出すプランがあったらしく、友人の脚本家スチュワート・スターン(『理由なき反抗』、ポール・ニューマンの監督作『レイチェル・レイチェル』などを執筆)を聞き手に口述筆記の形でその準備を進めていたがいつしか頓挫。二人共亡くなていた2019年にニューマン邸の地下室のキャビネットからその生原稿が発見され、ポール・ニューマンの愛娘のプランで膨大な原稿を整理、ポール・ニューマンの死後15年目にして公に発表される事になった…という塩梅。

 本書はポール・ニューマンへの聞き書きを中心にしつつ、愛妻ジョアン・ウッドワードを始めとした親族、一般人の友人、スターになってから関わる事になった映画人たち(監督、共演俳優など)へのインタビューやコメントも多く引用される事で、インタビューに客観性を与える効果になっている。

 1925年にオハイオ州で生まれたポール・ニューマンが演劇の道へ入ったのは、両親との確執があり父の仕事(スポーツ用品店)を継ぐのを良しとしなかったかららしい。太平洋戦争従軍を経て大学の大学院での舞台出演が関係者の目に止まり、高名な「アクターズ・スタジオ」で演技を学びブロードウェイの舞台でも主演、ワーナーブラザーズと5年契約を交わして映画にも進出。初主演作品『傷だらけの栄光』(56)が評価され、ハリウッドスターの道を歩んでいく。

 同じアクターズ・スタジオ出身のジェームス・ディーンやマーロン・ブランドの様な閃き型の天才肌ではなく、初主演時も31歳と遅咲きではあったものの、俳優としては順調なキャリアを積んで来たと傍目には思えるのだが、本人の自己評価は極めて低く、何で自分みたいな凡人が俳優として成功したのか、ただ単に運が良かっただけだとポール・ニューマンは本書で述懐している。この本人と周囲の認識のずれというのは、ポール・ニューマンの人生に終始付き纏った様だ。

 映画で別の人物を演じているポール・ニューマンと現実のポール・ニューマンは全く別人なのに、何故私生活でパパラッチに追い回されねばならないのかという疑問。更に充実感覚える仕事をしてもそれがちゃんと評価されないへの苛立ち。ポール・ニューマンは7回アカデミー賞主演男優賞にノミネートされながら悉く受賞を逃し(作品賞、助演男優賞にも一度ずつノミネート)、漸く『ハスラー2』でゲットしたが、本人としては微妙な気持ちだったぽい。ごく客観的に考えて『ハスラー2』より『ハスラー』(監督賞は受賞)の演技の方が上だし、『ハッド』(63)では自分がオスカーを逃したのに主演女優賞はゲットしている(パトシリア・ニール)。何で俺じゃダメなんだ…こういう心理的な苛立ちが酒に走らせ、アルコール依存症への階段を上っていく事になったのだ…と推測される。

 そして78年に前妻との間に生まれた長男が酒とドラッグに溺れて命を落とした事から、ポール・ニューマンは俳優活動と共に、麻薬撲滅運動を始めとしたチャリテイー的な活動を展開。その資金稼ぎの為に事業家としての活動も80年代から行っている。

 趣味のカーレースも含めそういう俳優以外の活動のアクティヴさも他の俳優には例を見ない物であったが、俳優活動においてもポール・ニューマンは俗的なハリウッドスターとは一味違うスタンスを持っていた事が、本書の関係者の証言からも判る。ハリウッドスターの中には、ポール・ニューマンと『熱いトタン屋根の猫』(58)で共演したエリザベス・テイラーみたいに、自分中心に地球が回ってる的に考える人物も多いが、ポール・ニューマンはあくまでスタッフや共演者との共同作業として映画出演を捉えていたと言える。作り手が望むならライバル的なスターとの共演も厭わなかった。

 本書ではポール・ニューマン自身、或いは関係者から出演作の撮影中エピソードが数多く語られ、当然ながら読んでいて愉しいのだが『タワーリング・インフェルノ』(74)のエピソードは全く登場してこない。共演のスティーヴ・マックイーンはあらゆる意味でポール・ニューマンとは真逆のハリウッドスターであった。撮影中思い出したくもない事があったのでは…と推測されるのだが。

 

 人生は通し稽古でしかないと、ポール・ニューマンは本書の終わりで述べている。イケメンで女に不自由しなかった学生時代、スターの階段を一歩一歩登っていった50年代、息子の苦悩にも目を向けず飲酒に溺れていった時代を振り返り「自分は何もわかっていなかった」と総括し、「あらゆる栄光を手にしてきたけど、私の核にいる何物かは誰にも関心を向けられない無味の存在なのだ」と結んでいる。誰もが羨む映画スターの座を獲得しながらも、自分はこれでいいのかと常に悩み続けたポール・ニューマン。そんな風に選ばれし者の孤独を表現するハリウッドスターも彼ぐらいだろう。

「私が死んだら誰かが『カット!』と叫び、監督がカメラを最初の位置に戻してこのシーンをやり直すと言う。そんな風に別の人生が始まるのだ」。もしそれが本当だとしたら、ポール・ニューマンは別の人間になって、今どんな人生を生きているのだろう。 

 付録コラム~ブレイクしそこねた河西健司

 この前尾藤イサオが登場した『日刊ゲンダイ』の健康に関するコラムに、今度は河西健司が登場。もう30年以上痛風持ちで一時は歩けない程酷かったというから他人事ではないよね。尾藤イサオと違い近影は年相応(74歳)に老けており、若い頃(といっても最初に見た時既に30歳だった)のキューピー系童顔の面影は無くなっている。

 河西健司はアングラミュージカル劇団『東京キッド・ブラザーズ』に参加していた深水三章らが立ち上げたロック・ミュージカル劇団『ミスター・スリム・カンパニー』にかつて在籍(有名どころでは布施博、ディスク・ジョッキーの赤坂康彦らがこの劇団出身)。そのミスター・スリム・カンパニーごと出演という名目で日活ロマンポルノ『女高生 天使のはらわた』(78年 監督・曽根中生)で映画初出演。記念すべき石井隆漫画最初の映画化作品でもあった。批評的にはイマイチだったが、石井自身は痛く気に入っていたと言われる。河西は女を凌辱する不良ライダーの一員で、妹を溺愛するリーダー格(深水)と対立するという役どころで好演し注目を集める。曽根監督の次回作『天使のはらわた 赤い教室』(79)にも端役出演、以降ロマンポルノの常連男優に。

 ロマンポルノ時代の代表作は、「ロマンポルノの百恵ちゃん」がキャッチフレーズだった日向明子のデビュー作『禁じられた体験』(79)。田中陽造が脚本を書いた、こちらは逆に妹(日向)を溺愛し、妹と付き合っている友人を警戒するナイーヴな兄貴役であった。カルトフォ―クシンガー・友川かずき(現・友川カズキ)が役者出演し宮下順子と濡れ場を演じるという意外な一幕もあったが、『団地妻』シリーズとか撮っていた西村昭五郎らしからぬ青春ドラマ。日向が兄と友人の手を取って握手させるラストシーンが爽やかで、未だに映像として記憶に残っている。ネット検索してもこの作品に関する写真類が一切引っかからないという事は、現在ジャンクされ作品が存在しない可能性アリ。

 

 ロマンポルノ出演の一方で河西健司は水谷豊の『熱中時代』シリーズに交番の警官役でレギュラー出演、水谷に気に入られたのかその後番組『あんちゃん』にも水谷の幼馴染役で出演した。更に80年代初期には各TVキー局で冠番組を持ち「視聴率100%男」の異名を取っていた萩本欽一の目に止まり、84年に日本テレビの『日曜9時は遊び座です』にもレギュラー出演。これは本業の役者を起用してコントドラマを上演する公開バラエティ―番組で、河西健司のキャラクターも上手く生かされていたが、一部では評判だったものの『俺たちひょうきん族』のアドリブ的な笑いが求められていた時代に欽ちゃんの作り込みのコント劇は多くは受け入れられず、低視聴率で終わった。 

 その後の河西健司は童顔を生かした刑事ドラマのチンピラ役などを経て、90年代以降はあらゆるジャンルのドラマに出演。映画では『踊る大捜査線 THE MOVIE』の警視庁部長役で久々に姿を見たぐらい。ロックミュージカル出身という経歴を生かした、軽い感じの台詞回しなどは独自な味があり、ロマンポルノ常連組男優としては内藤剛志みたいに売れる可能性もあったと思うが、映像デビュー時で29歳とやや遅かったのと、欽ちゃん人気が既に下降線だった為にブレイクのきっかけを失ってしまったのが至極残念である。

 それでも生き馬の毛を抜く様な俳優業界でちゃんとサバイバルできているんだから、その点では敬意に価する。昔彼がスリム・カンパニー時代の後輩である中西良太と結成した劇団の旗揚げ公演を観にいった事もあるし、これからも応援したい俳優の一人だ。