大正7年。駆け落ちした井上義雄(田村高廣)きし(高峰秀子)は新天地を求めハワイへ。向かう船内には初対面の郷田(小林桂樹)と結婚する事になっているすみ(久我美子)も。ハワイでの生活は想像以上に厳しい物で、朝から晩まで畑に駆り出されての農作業。偏見な差別にも苦しめられる。それから二十年以上経った。井上は日本語学校の教師となりきしは食料品店を経営。郷田夫婦はクリーニング店を営んでいる。両家とも二人づつの子供に恵まれ幸せな日々…。

 

 今年は高峰秀子生誕100周年記念の年であり、都内ではそれに関連した上映会も決まっているらしい。戦前子役時代は松竹専属、成長してからは東宝スターになった高峰だが、1951年以降はフリーになり各社の作品に出演。取り分け『カルメン故郷に帰る』(51)で出会った木下恵介との付き合いは長く続いた。本作も木下恵介が企画し、木下の助監督出身で高峰の夫になった松山善三が監督を務めた。ハワイに移住した夫婦とその家族の運命を描く松竹のファミリードラマ。高峰と同じく木下作品とは縁が深かった田村高廣、東宝専属だった小林桂樹、木下作品では『女の園』(54)で高峰と共演済みだった久我美子らの出演。ハワイロケが話題に。

 

 昭和になり戦争の道をひた走る日本。だが移民一世のきしたちとは違い、子供たちは米国社会で屈託なく成長。日本を母国と考える親とのギャップは大きく、義雄と長男・春男は考え方の違いから大喧嘩。その際血圧が上がった義雄は斃れ亡くなってしまう。きしは夫の望郷の念を適えるべく遺骨を持って次男の明と共に日本に帰国。所が日米関係が危うくなった事できし親子はハワイに帰る事ができなくなった。ハワイでは日本軍の奇襲によりすみが巻き添えを食って亡くなる。郷田は日本人収容所送りとなり春男、郷田の息子・一郎、娘・さくらは否応なく今後の身の振り方を考えなければならなくなった。日本では明が憲兵に連行されて…。

 

 映画が進む内演出の視点は移民一世ではなく二世に傾いていく。日本語を喋ってはいても中身は米国人の二世たちが苦悩した上に選んだ選択。かたや日本ではハワイ生まれというだけで息子が酷い目に遭い、そこから何とか救いだそうとする母親の子を想う気持ちが描かれる。後者の語り口からも判る様に本作の演出は良くも悪くも木下恵介の影響大で、松山善三は木下作品の助監督だったんだから仕方なしではあるが…。それでも二世を演じる早川保、桑野みゆき、石浜朗、ミッキー・カーティスといった、当時の若手俳優たちの熱演は悪くなく、その効果で作品がオジン臭くなってない所が本作の長所だろう。反戦のメッセージも強かった。

 

作品評価★★★

(木下恵介の戦前作品『陸軍』そっくりのシーンがあったり、クライマックスシーンの演出は違うんじゃないかと思ったり、手放しで褒めれる作品ではないけど、太平洋戦争時の米国移民たちにスポットを当てた作品など公開当時は全くなかったと思うから、その点は認めてもいいかな)

 

付録コラム~日本の戦争映画って暗いね

 スタンリー・キューブリックの作品群の中でも、ブラックユーモア色強いのが『博士の異常な愛情』(64年。正式なタイトルは『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』 )と『時計仕掛けのオレンジ』(71)。前者の現実に起こるかもしれない核戦争と、後者の管理化された未来社会の描写は極めてグロテスクな物に描かれている。

 今回『博士~』を44年ぶりに再見したが、その毒性は些かも衰えてはいない様に感じた。狂気に駆られた軍人によってソ連への核攻撃が発動され米国政府は大混乱。寸前の所で攻撃は回避されたと思いきや、連絡機能が故障した一機の攻撃機を止める事はできず核爆弾は投下され、それによってソ連が報復用に開発した「皆殺し装置」も自動的に起動し、地上世界は早い時期に壊滅する事が決定。人類は極端な選民主義によって地下社会で生きる事を余儀なくされる。

 核攻撃が始動した際、緊急会議中でも愛人とやり取りしながら「この際だからソ連を徹底攻撃して壊滅させるべき。報復されても米国の犠牲者はたかが2000万人」とうそぶく好戦的な将軍、元ナチスだった時の癖が抜けず「総統ポーズ」が出てしまう、ドイツから亡命した大統領お付きの核戦争の専門家などグロテスクな笑いを含んだ人物が登場するが、最大の毒はカーボーイハットを被り核爆弾を馬代わりにして陽気に落下していく攻撃機パイロットの姿。今流に言えば一種の自爆テロみたいな物である。

 背景にある東西冷戦構造は過去の物になったかと思いきや、ウクライナ戦争によって復活した感がある。プーチンは頻繁に核攻撃を匂わせてウクライナのバックにいる西側?の諸国を挑発。一人の狂人によって世界が取返しのつかない事になるかもしれないという、本作が提示した恐怖は現実の物となりつつある。

 こういう戦争に纏わる重いテーマをギャグ的に描く感性は日本の映画人には皆無だろう。先の戦争においては日本は原爆を投下された被害者であるという側面ばかりが強調され、日中戦争において加害者だったという側面はまるで無い事にされている。特攻隊は勇敢に国の為に闘ったという描写以外は許されておらず(特攻隊映画の脚本を手掛けた事のある笠原和夫の調査によると、心底納得して死んでいった特攻隊員はほんの一握り。特攻する勇気がなく引き返してきたが基地に帰る訳にもいかず、燃料尽きるまで特攻機を延々と飛行させ山中とかに墜落して死んだ隊員も複数いたとか)、隊員が美化されて描かれるとされると、当然それを送り出す立場の上官も同じ様に描かれる事になってしまうのだ。こんなんじゃ「斬新な戦争映画」って製作されようもないし、例え舞台を近未来に変えても殆ど同じテイストの戦争映画になってしまう…という訳。

 岡本喜八は『独立愚連隊』(59)で戦争を痛快なアクション作品として描いた日本で唯一の監督だが、そのぺナルティーとしてそれとは対極的な『日本のいちばん長い日』(67)の監督を命じられてしまった。ともかく日本は被害者だから「暗い戦争映画」以外は撮っちゃいかんのね。トホホ…。