足掛け37年に渡って放映されたTV時代劇『必殺』シリーズ。俺と同世代の人は勿論、俺より年上の人生の先輩でもこのシリーズを一度も観た事がない人なんて、日本中でも殆どいないのではないか。

 俺も映画マニアになる以前までは結構熱心に観ていた口。中でも一番好きだったのがシリーズ第2作に当る『必殺仕置人』(1973年4~10月までTBS系列で放映)であった。「必殺」の代名詞である藤田まこと演じる「昼行燈の同心・中村主水」を生み出したシリーズであり、まだシリーズの根幹がちゃんと定まっていない中、強く群像劇スタイルを打ち出した革新的な時代劇であった。かつ凶器を使わず指圧と骨接ぎという特技を生かし「仕置き」を行う「念仏の鉄」(山崎努)というキャラクターが忘れ難い。

『必殺仕置人大全』は『必殺仕置人』放映から50年目に合わせ『必殺仕置人』と、その続編である『新・必殺仕置人』(1977年)の徹底分析本。仕置人のキャラクター解説から始まり、主に関わった監督&脚本家の紹介、サントラ音楽についての論考、一話ごとのあらすじ、解説、ゲスト出演者のみならず台詞が用意された端役を演じた役者の履歴を全て調べ上げ、現存している脚本と完成したドラマを照らし合わせ、監督の演出によってどう改変されたかを分析。この手の研究本なら必須な関係者インタビューは本書にはない。他の必殺関連本では既にされている事と「必殺仕置人マニア」の矜持で、敢えて「視聴者」の立場を貫いて編集された、真のマニア本と言える。

 本書を読んで実感したのは、中村主水と鉄とのバデイ的な深い絆。ドラマ内で明確には描かれていなかったが、主水と鉄は佐渡金山で役人と囚人という立場で出会い親交を深めた。主水は若い頃にそれなれりの正義感を持って奉行所勤めになり同心の職を得たが、上役の不正を目にしても下っ端役人では何もできない無力感を嫌と言う程味わっていた。一方の鉄は生まれついてのアウトロー。その出自は明かされていないが、人殺しなど屁とも思っていない事は確かで、主水と出会わなかったら仕置きされる側に回っていた可能性もある。

 そんな二人が第1話『命を売ってさらし首』(監督・貞永方久)で、鉄と同じ長屋仲間である「棺桶の錠」(沖雅也)が、ある女から無実の罪で処刑された父の恨みを晴らして欲しいと頼まれた事から「仕置き」に手を染め、密偵担当の半次(津坂匡章)、おきん(野川由美子)も加わって「仕置人」が結成される。正義感故に仕置料を受け取る事を拒否する錠に「悪を制する為には俺たちも悪になるしかないんだ。だから金を取れ」と強く言い切る主水の、ハードボイルドさが感動的であった。

 

 以降『必殺仕置人』に影響されたのが動機と主張する殺人事件が現実に起こった事で、本来3クール放映のはずが2クールになり、内容にも若干の修正がありつつも『必殺仕置人』は高視聴率と制作スキルを維持し続けた。最終回『お江戸華町未練なし』(監督・工藤栄一)では仕置人の存在が奉行所にバレ、半次が捕まって斬首される寸前に助け出したものの、手配書が回って仕置人たちは江戸に居られなくなる。

 唯一奉行所側にバレていない主水が、俺もお前らと一緒に行くと訴えるのを制した鉄は六文銭を取り出し「裏か表か、お前が当てたら一緒に逃げる」と提案。勿論これはイカサマで仕置人は散り々々になって江戸を後にする事になり、主水が退屈そうにただの昼行燈に戻るシークエンスが泣ける。帰れる所があれば帰ればいいじゃないか…という、鉄の主水に対する、彼なりの思いやりであったのだ。

 それから数年後が『新・必殺仕置人』の劇中世界。ほとぼりが冷めて江戸に舞い戻った鉄は短筒使いの巳代松(中村嘉葎雄)、密偵役の正平(火野正平) おてい(中尾ミエ)と組みまた仕置人をやっている。ただ彼らは他の仕置人グループと共に「寅の会」という裏組織の傘下になっており、入札によって権利を獲得した時のみ仕置きする事を許される。他にも様々な掟があり、昔と違って厳しい監視下の中で仕置きをしなければならないのだ。

 そんな時仕置きの標的として中村主水の名が挙がった事に鉄は驚き、掟を破って主水と再会。これがきっかけで中村主水は組織に顔バレしていない、文字通りの「闇の仕置人」として復帰する事になる。

 前作になかった掟に縛られながらの仕置きという設定が斬新で、スタッフも前作の経験を踏まえた上で、前作よりも遊び心満載のシチュエーションや殺陣シーン、世の趨勢を取り入れた脚本執筆が多くなっていった。加えて本書によると山崎、中村、火野がドラマ設定そのまんま呑み仲間になった事で、撮影では3人によるアドリブシーンが当たり前だったとか。だがゲスト出演者は前作の様な意外性が無くなり、悪役のエキスパートばかりが繰り返し登場する様になっていったのは、ちょっと残念であった。虐げられた人の恨みを晴らすストーリー性より、殺陣の面白さで観せる印象が強くなった感もあり、後年のケレン味たっぷりな必殺シリーズの雛形という感じもする。

 鉄の破戒僧ぶりは前作以上に強調され、女を仕留める役回りは鉄の専任になり厠に入っている時や交接中にやるといったえげつない下りも。主水は姑(菅井きん)によるイビリのコントシーンが毎回登場し、仕置きシーンでのダークヒーローぶりと完全に対になり、これも後の必殺シリーズに受け継がれていく。

 最終回『解散無用』(監督・原田雄一)では寅の会が新たに代わらんとする者によって潰され、巳代松も拷問により廃人になってしまった事で、最後の復讐戦に臨む鉄と主水。面が割れてない事が功して主水は見事に標的を仕留め恨みを晴らすが、鉄は瀕死の重傷を負いながらも女郎屋へ行き、女と交接中に絶命。カッコいい死にざまを用意しなかった点に「鉄の再々登場は無い」という作り手の区切り的な潔さを感じる。

 主水は前作の最終回と同じく生温い感じで生き延びていく事が暗示されるが、こちらは再登場は必至という雰囲気アリアリだったのは言うまでも無い。

 

 ご存知の様に『新必殺仕置人』終了後も必殺シリーズは延々と続き、たまには観る事もあったけど、既に俺の興味がTVドラマよりも日本映画に傾いており、熱心さはもうなかったが…。主人公が何の後ろめたさもなく悪人も斬りまくる、勧善懲悪という旧来の時代劇ドラマの縛りから解き放たれた発想が斬新だった必殺シリーズ。取り分け『必殺仕置人』は仕置人5人のキャラクターを最大源に生かしつつ、自分たちも「悪」である事を自認している所が素晴らしいと思う。本書を読みながら各話の名場面を脳内プレイバックするか…と思っていたら、何と今現在ケーブルTVで絶賛放映中なのであった。50年間でもう何回再放送されたのか。『必殺仕置人』は今もリアルタイムで、我々を魅惑し続けているのだ。

 

 

 

 付録コラム~「美人局」って言葉をTVで聞くとは

 コンプライアンスの強化で、現在TVでは使ってはいけない言葉がかなりあると思われる。反社的なイメージを想起させる言葉などその最もたる物だと思っていたが「美人局」は大丈夫だった…というか。まさかぞんな言葉を今TVで聞くとは想像だにしなかった。

 とある大学生がSNSで知りった娘と会おうという事になったが、実際会うとその娘は中学生で、彼女に誘われとあるビル非常階段の踊り場に行くと、彼女の恋人という中学生と、やはり中学生の先輩だというその友人が待機しており「俺の女に手を出しやがって」と難癖付けられて金を要求され、大学生は隙をついて屋上へ逃げたが、隣のビルの屋上に飛び移った際足を滑らせ転落して即死…というニュースが。中学生たちはどうやら同じ手口で他でも小遣い銭を稼いでいた可能性が。中学生って中には画体のいい奴もいるだろうけど、大人の目から見たらまだまだ子供。そんなガキンチョが美人局とは驚き桃の木山椒の木である。

 山田洋次の傑作『吹けばとぶよな男だが』(68)で、主人公のチンピラ(なべおさみ)がオツムの弱い家出娘(緑魔子)をナンパし「これからはコイツを使って美人局で稼ぐぞ」と宣言したら、娘が真顔で「美人局ってなーに?」と尋ねるいたいけなシーンがあったけど、件の事件を報道したTVを観た息子(或いは娘)に同じ様に訊かれたとしたら、父親はどう答ればいいのか迷ってしまうね。

 大体俺ら昭和世代では遠く離れた所に住んでいる人間とは、せいぜい「文通」で繋がるしかなかった。所が今では北海道在と沖縄在の人間野間でもSNSで容易に知り合え出会うまでにも特に障害は無い。その結果それを悪用した連中によって、今回みたいな事件が起きたりするのだ。俺なんか例えムチャ可愛い娘から会いたいと言われても、相手が未知の人間というだけで警戒してしまう口だが。

 

 SNSといえば、純愛アニメ映画『君の名は。』のプロデューサーがSNSで知り合った女子高生に裸の画像を送らせた疑いで、児童売春および児童ポルノ禁止法違反の疑いで逮捕という事件もあった。これも余罪がかなりあるらしい。容疑者は年齢的には俺より一回り以上年下だが、それでも若い頃は俺らと同じく「女子高生のピチピチな裸」なんてまず見られる時代ではなかったはず。所がSNSのお蔭で交渉次第ではそれが可能な時代になり、一度手を出したら病みつきになって犯行を重ねた…という流れだろう。容疑者を擁護する訳ではないけど、これもSNSさえ存在しなかったら起き様がない事件であった。

 SNSは犯罪の温床とまでは言わないけど、SNSに纏わるロクでもない事件が多過ぎるよ。俺も昔知り合いの女性からツイッター(現『X』)をやって欲しいみたいな事を言われた事けど、やらないと言って断った。特に日常的に発信したい事柄なんて何も無いし、せいぜいブログで映画や音楽など好き勝手な事書いてられればそれで満足。それ以上の事は何も望まない。