激震が走り続ける女子プロ団体『スターダム』のトップレスラー、ジュリアが噂されていた通り3月末日をもってスターダムを退団する事が明らかになった。それに嚙みついたのが一時ジュリアとユニットを組んで共闘した事もある舞華。ジュリア退団を大々的に報道した『東京スポーツ』記者を公園に呼び出し「関係者とかがベラベラ喋りやがって。こういう事はまずジュリア本人の口から聞くべき。関係者って誰だ? 教えろ! 痛い目に遭わせてやるから」と、記者を恫喝したとか。

 スターダム所属選手としては当然の抗議だとは思うけど、マスコミとしては既に公然の事実となっている退団問題(ジュリアは去年末フロントに退団の意志を表明し認められていたという)を本人が発表するまで待っている訳にはいかない。却って契約切れの一か月前まで退団報道を控えていた東スポに思い遣りを感じる程だ。

 かようにして「火のない所に煙は立たず」の諺通り、プロレス界で選手の退団や移籍の噂が出た場合、ほぼ百パーセントの確率で真実である。ムラ的社会であるプロレス界では隠し事なんて殆ど通用しないのだ。だが稀に事が露わになる直前まで秘密裡に進められた移籍劇もある事にはあった。ご存知日本で一番成功した外人レスラーといっていい「不沈艦」スタン・ハンセンのケースである。

 81年5月。事前に何の説明もなくアブドラー・ザ・ブッチャーを『全日本プロレス』から引き抜いた『新日本プロレス』のフロントに不信感を持ったハンセンに、ジャイアント馬場と『全日本プロレス中継』のプロデューサーが接触したのが翌6月。以降全日年末恒例の『最強タッグリーグ』最終戦の会場にハンセンが現れるまで、約半年間プロレスマスコミに情報が漏れる事無く「引き抜き工作」は進行した訳だ。新日側としてはブッチャーを引き抜いた以上、全日が報復行為に出る事は想定内で、ブッチャーとウマが合う訳がない「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シンが何れ引き抜かれる事も予想していたと思うし、団体内でのトラブルを回避する事を考えれば、シンが引き抜かれても良しとするとまで考えていたとも推測される。だが新日の看板レスラーまでになっていたハンセンの引き抜きは、全く考えてはいなかったはずだ。

 それにしても今のマスコミの暴走ぶり?を見てると、全く情報漏れもなくハンセンの引き抜き工作が順調に進んでいた事が信じられない。その「鉄のカーテン」に大きな貢献をしたのが「魂のプロレス請負人」の異名を持つ『週刊ゴング』編集長を長らく務めた竹内宏介であった。

 竹内は1967年若干19歳にして『週刊プロレス』の前身誌『月刊プロレス』のそのまた前身誌『プロレス&ボクシング』編集長に就任。翌68年には『月刊ゴング』の創刊にも関わり週刊誌化した以降も編集長を務めた、プロレスマスコミ界のレジェンドである。

 そんな優秀なプロレスマスコミ人であった竹内宏介は、長らく全日本プロレス中継での解説者を務めていた事でも判る様に「魂の全日シンパ」という顔もあった。『日本プロレス』時代から馬場と懇意していた竹内は『ゴング』の誌面を常に全日を優先的に編集した。70年代後半は「過激な闘魂」を売りに新日が全日を圧倒していたムードがあったが、それでもゴングは全日の試合ページを巻頭にしていたという。

 竹内は馬場と懇意という立場から、全日がハンセンを引き抜こうとしている事を知っていたが他人にそれを漏らす事は無く『ゴング』にもその様な記事は一切載らなかった。ブッチャーやシンの引き抜きはスクープ報道したのにである。これは明らかに全日に対する「忖度」であり、新日にとっては許しがたい事実だ。本来中立的な立場でならなければならないプロレスマスコミ人が、特定団体に有利に働く様に都合の悪い事は「沈黙」するというのは、一般のマスコミでは許されないはず。でもプロレス界ではそれが罷り通ったのだ。

 そのやり方は90年代、編集長のターザン山本が馬場から金をもらい『週刊プロレス』で全日のライバル団体の『SWS』を徹底的にこき下ろすという流れに結びついたと言えるだろう。

 81年12月。新日年末恒例の『MSGタッグリーグ戦』最終戦終了後のハンセンの不審な行動を見て『ゴング』以外のプロレスマスコミ、そして新日も漸く全日の引き抜きの動きに気付いたが、既にお膳立ては出来ていた。そして運命の12月13日蔵前国技館の乱入劇へと。全日のレフェリーも選手も直前まで知らなかった(馬場のみが知っていた)ハンセンの引き抜き劇は、今振り返っても完璧な物であったと言えよう。プロレス団体の団体力が弱まり、竹内宏介の様なプロレスマスコミ界の顔役的存在もいない現在では、まず不可能である。