播州赤穂城主浅野内匠頭は、江戸城で高家筆頭吉良上野介から受けた恥辱にたえかねて殿中刃傷に及び、取り押さえられ切腹を命じられた。赤穂藩は取り潰しとなり筆頭家老・大石内蔵助(市川猿之助)は赤穂城明け渡しに応じたが、密かに有志の藩士たちと連判状を作って仇討の念を固める。内匠頭の近習早野勘平(高田浩吉)は事件当日に腰元のおかる(高千穂ひずる)と逢引して主君の側にいなかった事を悔やみ、自刃しようとした所をおかるに止められた…。

 

 日本で最もポピュラーな仇討譚である「忠臣蔵」。当然ながら戦前から何度も映画化され、戦後も1951年だけで7本の忠臣蔵映画が製作されたという。戦後が安定期に入り映画産業が好景気になると各社がオールスターキャストの大作仕様で忠臣蔵を映画化している。本作はその松竹版で歌舞伎の題目『仮名手本忠臣蔵』に、そのサイドストーリーとして有名な勘平とお軽話を織り込んで井手雅人が脚本を書き、時代劇を数多く撮った大曾根辰保が監督。赤穂浪士の討ち入りに合わせて年末公開かと思いきや、お盆興行の一本立てとして公開されている。当時の気鋭の歌舞伎役者が多く出演し高千穂ひずる、有馬稲子などの松竹女優が共演。

 

 勘平は仇討に加わる為の持参金50両の為に人を殺めその懐から50両を盗んだが、おかるの父を誤って殺したと思い込み自害。それが誤解だと判ったが遅かった。内蔵助は仇討の意志を悟られぬ様京都で派手に芸者遊びを繰り返す。その際に遊女となったおかると会う内蔵助。おかるは吉良の密偵が潜んでいるのを見つけて内蔵助に知らせ、その礼に内蔵助はおかるを身請け。そんな彼女を実兄が脅迫するが、これはおかるの勘平への想いを汲んで仇討の手助けを促す、兄の命を捨てた芝居だった。内蔵助の嫡子主税と加古川本蔵の娘小浪は許婚の間柄だったが、主悦が仇討に加わる以上婚姻は破談にすべきと内蔵助は考えて…。

 

 二時間半強の長編で『仮名手本忠臣蔵』の名場面を抜粋した様なストーリーになっている。考えてみれば松竹が歌舞伎界を仕切っている以上、原作に忠実に映画化するのは当たり前であろう。主要出演者も多くが歌舞伎役者だが、俺は歌舞伎界に詳しくないので「初代」とか「二代目」とか言われても、あまりピンとこないのが難。女優陣では山田五十鈴と嵯峨美智子の母娘共演など奇麗所を集めてはいるけれど、あくまで男たちのドラマという印象は否めず。吉良護衛側の清水一角(大木実)の描き方など、もっと脚色を膨らませれば面白くなったかもしれないが、作り手側にそういう余裕などなかったというのが実情だろう。平凡な一作だった。

 

作品評価★★

(女優が活躍するシーンを増やした58年公開の大映版忠臣蔵の方がベターだったと思う。豪華キャストを組んだ分、吉良役を中堅俳優の石黒達也に振る事になってしまったのも微妙に痛いなあ。尚本作は短縮編集されて62年に『仮名手本忠臣蔵』のタイトルで再公開された)

 

付録コラム~獅子てんや・瀬戸わんや

 1985年か86年頃だったと思うが、中野区近辺を散策していた時漫才師「リガール天才」の自宅に出くわした事がある。何故自宅だと判ったかというと、表札の本名の横に「リガール天才」と書き加えてあったからだ。「リガール天才・秀才」といえば、80年代の時点で東京の漫才界の大御所であったはずなのだが、天才の自宅は築が結構古そうな平屋建ての住居で、正直こんなみずぼらしい家に住んでるのか…と思ってしまった。当時の東京の漫才界は『ウッチャンナンチャン』が売り出してきた以外これと言って目立った動きがなく、その不振ぶりを物語る個人エピソードかなあ…と思っていたのだが、最近知った所によるとリーガル天才・秀才は放送業界の芸人軽視の風潮を不満としてテレビ・ラジオ出演拒否を宣言し、長い間活動は高座出演のみに絞っていたそうだ。あの自宅も「反骨芸人」の証しだったと言えるのかも。

 神保喜利彦という平成生まれの若者が著した『東京漫才全史』(筑摩書房・刊)は東京漫才の系譜を江戸時代から考証した労作で、リガール天才・秀才が全盛期だった50年代から60年代の東京漫才の状況も詳しく書かれているのだが、その中で大人気を博したコンビとして紹介されているのが、獅子文六の小説『てんやわんや』から芸名を取った「獅子てんや・瀬戸わんや」。俺が物心ついてTVで初めて観た漫才コンビがこの二人だった。今観ても笑えるかなと思いさっき動画を観てみたが、普通に笑えた。

 

 向かって右側に立っているのが大柄で元警察官だったというボケ担当の獅子てんや、左側が小柄で禿げ頭のツッコミ担当の瀬戸わんや。今は「おぎやはぎ」とかいるけど、二人とも眼鏡というコンビは当時珍しかったかも。TVで披露していたネタは、大抵てんやが一方的に話してる所にわんやが入っていくのだが、話が全く嚙み合わず中途でわんやがキレるというパターン。あとわんやの禿を弄るネタでわんやがキレる…というパターンもあった。

 典型的なしゃべくり漫才で二人の呼吸が見事に合っており、かつ下ネタを全くやらない(寄席とかのステージでは下ネタもやっていたらしいが)事もあり、NHKで重宝された。親子で観ていても安心して観れる漫才…という感じで、60年代半ばから67,8年ぐらいが全盛期だったと思う。

 キレ芸や禿ネタは今の漫才にも継承されているし、TV番組の司会やコメディリリーフ的に映画やTVドラマに出演もしたけど、あくまで漫才中心に活動していた。彼等だけでなくその頃の東京の漫才師の大方は、今のお笑い芸人に比べるとずっと洗練されていたし、上方漫才師の「アホの坂田」みたいに、笑いの為なら恥も外聞も捨てるみたいな貪欲さを見せる事も殆どなかった。

 でも獅子てんや・瀬戸わんやは今振り返ると全盛期が意外と短かった。60年代後半になるとTV界に「ハレンチブーム」が起き、漫才師も下ネタを入れないとTVに適応できなくなったのに加え、『コント55号』と『ザ・ドリフターズ』が大ブレイクし東京のお笑いがコント中心になっていった影響で、例えてんや・わんやの漫才が「名人芸」的な物であっても、俺たちみたいな子供層へのアピール度が不足していた事は否めない。『東京漫才全史』ではコントも漫才の範疇ぽく扱われていいたけど、俺は漫才とコントは別種のジャンルだと思う。80年代になると「MANZAI」ブームが吹き荒れる中で、二人の姿をTVで観る事はなくなってしまった。

 マニアックな笑いが注目されつつある現在のお笑い界を見るにつれ、その反動で王道的なてんや・わんやの漫才を懐かしく面白がって観れる昭和世代のオヤジは、多分俺だけではないだろう。