『日本侠客伝』『網走番外地』に続きシリーズ化された高倉健の『昭和残侠伝』シリーズ(65~72)の2&3作目を鑑賞。本シリーズでの健さんの背中に唐獅子牡丹が彫られている事からも判る様に、任侠映画ブームを象徴するシリーズであったと言える。2作目『唐獅子牡丹』の健さんの役名が「花田秀次郎」。4作目『血染めの唐獅子』(67)以降主役名は花田秀次郎に固定される事に。健さんと敵対する関係として登場し、最終的には殴り込みの道行きに同行する池部良というシチュエーションも、本シリーズの売りだ。『唐獅子牡丹』『一匹狼』は共東宝~新東宝を経て東映専属となった佐伯清が監督。『昭和残侠伝』シリーズ全9作中5作を監督している。

『唐獅子牡丹』の秀次郎は、弟分の駆け落ちを認める取引で左右田組の為に何の恨みもない榊組の親分を斬る。服役後榊組の親分の墓参りの為秀次郎が戻ると、亡き親分の未亡人・八重(三田佳子)は、稼業の石材採掘請負業をライバルの左右田組の汚い妨害で苦しめられていた。秀次郎は自分が八重の夫を斬った事を告白できぬまま、榊組の味方となり左右田組と対峙。そこに元榊組組員で満州に渡っていた畑中(池部)が帰還。悩み抜いた末八重に親分を斬った事を告白する秀次郎。それを知った畑中は敵を討つべく秀次郎に対決を要求するが、八重が必死に止めた事で一旦矛先を収める。左右田組の汚いやり口はエスカレート…。

 

 事情があったとはいえ善玉親分を殺した事への秀次郎の後悔が、未亡人母子との交流の中で浮き彫りになっていく。直ぐに秀次郎に懐く子供(演じるは名子役だった穂積ペペ)というシチュエーションは、何か後期の『座頭市』みたいだなと思ったりしたが…。池部の登場の仕方などには脚本的にまだ一考の余地があり、シリーズの根幹が定まっていない事は確かだが、石切り場を舞台にした殺陣シーンは悪くないし、お互い理会した上での健さん&池部の同行シーンは、パターンで何度観てもグッと来る。マニア的には左右田組親分・水島道太郎の息子たち~山本麟一(オカマチックな感じ・笑)、今井健二、関山耕司の狂った三兄弟が結構好き。

『一匹狼』の最初の舞台は浅草。抗争の末親分の命の取り合いで敵親分を殺してムショ入りした武井繁次郎(高倉)。刑期を終え旅の途中、かつての弟分の妻で娼婦に落ちぶれた加代と再会。余命幾ばくもない彼女を父である老親分の下に届けるが、世話になった網元の若旦那を振って駆け落ちした娘を父は引き取らず、繁次郎は別の元子分が世話になっている芝居一座に加代を連れて行き、彼女はそこで病死。ふとした事で知り合った呑み屋の女将・美恵(藤純子)は繁次郎の気風の良さに好感を持つが、老親分のライバルである卑劣親分一家に草鞋を脱いだ竜三(池部)は彼女の兄で、かつ繁次郎の親分を殺した張本人でもあった…。

 

 映画の冒頭から3分の1までは、老親分とその娘の屈折した関係がフィーチャー。親分役の島田正吾、娘役の扇千景(後の参議院議長)の任侠映画ずれしていない演技が新鮮に感じられる。その後は敵的な間柄である健さんと池部の関係が、藤の恋人と兄という二重性を持って描かれていく。当然の如く果し合いになりそれを止める藤…って、完全にデジャブ感あるシチュエーションだが、恋人と兄どっちの命を優先的に選ぶべきかという藤の葛藤も伝わって来て、そういう女心的な描写が強いのが本作の特徴。その分健さん&池部の同行以降の展開がイマイチインパクトを欠いた印象に。『唐獅子牡丹』に比べると悪役キャストも弱かったな。

 

作品評価『唐獅子牡丹』『一匹狼』共に★★★

(『昭和残侠伝』シリーズの最高傑作は第7作の『死んで貰います』である事は間違いないのだが、佐伯清監督作の良さは職人監督ならではのサービス精神が行き届いている所か。『唐獅子牡丹』では花沢徳衛、田中春男と任侠映画に縁の薄い日本映画界の名脇役も出演)

 

付録コラム~原作に忠実に映画化した作品って思い浮かばない

 現在社会問題化さえしつつある某TVドラマに纏わるトラブル。俺はTVドラマなど殆ど観なくなっているけど、偶然問題となっているドラマの最終回は観た。素っ気ないエンディングは、後で原作者自身が脚本を書いたと知れて合点がいった。ただ放映時のネット界隈では必ずしも好意的な意見ばかりでなく、所謂王道的なエンディングを期待した向きも多かった様だが。

 今回のトラブルで一番不可解に思ったのは、原作者の「原作に忠実に映像化」という原作出版社を通しての条件をテレビ局側が二つ返事で?了承してる事。まず基本的な問題として小説や漫画の「読む」という行為と、映像で「観る」という行為は丸っきり別種の物で、原作のエッセンスを忠実に映像に移し変えるのはかなり難しい。更に民放テレビだと視聴者層を原作ファンのみに限定される訳にはいかず、それ以外の視聴者を掴む為には、原作者の意向を汲みつつそれなりの「脚色」が常套だろう。

 なのに製作スタッフ及び脚本家は、原作者と顔を合わせて内容について話し合いする事は一切無く(原作者の要望は全て出版社経由で伝えられたという)、結局原作者と製作側は最後まで思惑が擦れ違ったままドラマ放映は終了。その時のゴタゴタが燻ったあげく最悪の結末を迎えてしまった。原作者が原作通りの映像化を望む事自体は感情としてはごく当たり前の事であるが、プロデューサー、脚本家(原作者と同年代の女性だ)と詰めて話し合いをすれば、原作に忠実に映像化は無理でもお互いに納得できる到達点はあったかもしれないのに…。原作映像化交渉のあらましを知るのは出版社とテレビ局だが、多分藪蛇になるのを恐れ新たなコメントは出す事はないと思われる。企業防衛意識という奴か(溜息)。

 ただ思い返してみても、原作に忠実に映像化したテレビドラマや映画という物が全然浮かんでこない。傑作とされた原作付き映画作品も、大抵は作り手に少なからず脚色されていると考えていい。それは前述した様に「観る」事を考慮しての事だと考えていいだろう。

 

 でも中には「原作なんて所詮映画製作の叩き台」とばかり、原作を端から無視して作られた作品もあった。当然作品完成後にトラブルが発生したケースもあり、原作者が監督が亡くなるまで作品の二次使用(VHS化)を認めなかったりとか、製作を請け負った映画会社から監督が出禁扱いに…なんて事も。ただそういう作品が独りよがりの駄作だったら酷評して済むのだが、傑作になったケースもある。原作者が血の滲む思いで原作を書き上げたと同じ様に、作り手側も命を擦り減らす思いで原作者を裏切っている? そういう作家的なエゴイズムなら認めたくなる…って、俺が間違っているのだろうか。

 尤も最近では芸能事務所の立ち位置が映画製作側よりも強くなり、ダクションが所属俳優を目立たせる為に原作設定の変更を要求する例も多いと思う。こういう類には作品を良くしようなんて考えは毛頭なく、映画をタレントの宣伝材料としか考えていないのだから、そういう作品が傑作になる可能性は殆どゼロだろう。

 今回のトラブルで亡くなった原作者の気持ちは判るし、まず初めに原作を尊重すべしという大勢の意見も尤もだ。でも俺の本音を言えば原作を尊重した上で、そこに作り手の主観が多少なりとも加わった作品の方がベターだという気持ちは、やっぱり変わらない。